− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


49.連続性
 

42日の出発の日から書き始めたこのパラドックスも終りに近づいたようだ。今年中に終わらせ、新しい年にはまた性も懲りなくチャレンジする何かを見つけようと思う。それにしてもまだ2週間在る。もう一度書き残した事はないかをチェックするにはちょうど良い時間だ。(注:200312月中旬の筆)。

 さて、ギャラリーかわまつの歴史はちょうど私、川松義宣という個人の半分の歴史で、あとの半分はその蔭に隠れて表に出ない部分だと思う、そしてそれはほとんどの人にとってもそんなふうだと思う。私のなかでは宮本武蔵もラスコーフニコフもニーチェもレーニンも、さらにキリストも生きている人達で、何かあると彼らだったらこの場合どうするだろうと思うのだった。特に武蔵とキリストはよく出て来た。彼らは実在の人物ではあるが、私の前では半ば小説の中の主人公と同じようなもの -書き手によって随分と変わる架空の人物-であり、何冊ものそれについての本を読んで自分なりの武蔵なりキリストなりを創るしかなかった。つまりは自分の能力に応じた人物像を創るしかなく、さらに云えば自分の分身を創っていたのかも知れない。

 

ある人類学者がDNAを使って人類の先祖を遡ったところ、50万年前のアフリカにいた一人の女性に行き着いたという。つまり我々は皆兄弟姉妹で血のつながりがあり、ある種の記憶も共有しているかも知れない。武蔵やキリストの持っていた何かを、私も少し持っているかもしれないのである。そんな事を想像していると分身という言葉もあながちでたらめな思いとは云えない。
 寒くなったからかも知れないが、この夏も確か私の家にはあまりゴキブリが出なかった。昔はもっと頻繁に現れており、発見する度に「このー」とスプレイしていたものだが。ゴキブリでもあまり現れなくなると何か淋しいような、または本来は貴重な虫なのではないかと思えてくる。あの無駄のないスリムな身体、健康そうな羽根の光沢、その動きの速さ、どれを取っても確かに最も進化した昆虫の一種だと思う。

ゴキブリに限らず多くの昆虫には長い触覚があり、それを使って最初の一歩の動きを決めるようだ。私はあるとき思った、私の意識と云っているものと昆虫の触覚とは同じ働きをしているのではないかと。意識とは考えると云う事の以前の存在であり、たぶん生命に付随した、生命のリズムを続けるための、最初の動きを決めるための一種の選択器官ではないかと。私はたぶん意識のなかの無意識の領分のことを云っているのかも知れないが、昔その領分のことを本能という言葉で表現していたものと同じではないかとも思う。

どのような考え方でも、または世に出す論文でも、最初からその結論というか、云おうとしていることは決まっているのではないかと思う。疑問が出た時点で或る種の解決策というか、答えに近いものがその疑問の中に存在していると思う。例えば私の人類学にしてもそうで、石から人間への連続性は私にとっては全くの自明の理であり、疑う余地もないものだった。勉強するということはそのことをいかにきちんと説明するかというだけの事だけの事だった。しかしそれでもその課程で意識とは何なのか等と言う新しい問題が出て来るのだから勉強というものはおもしろい。