− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


50.終章ー目標
 

 限りある時間の中で、そして限りある私の能力の中で宇宙を理解したいということは、例えそれが出来たと思っても、それは私の個人的な宇宙観が形成されただけに過ぎない。もし真実というものが在るとしたら、それがどれだけ真実の近くにあるのかとても分からない。今流行のDNAにしても、その美しい分子構造がワトソンとクリックによって解明されたのは今から50年も前のことであり、私及び普通の人達がその意味に気が付いたのはせいぜい10年前で、40年間はその道の専門家しかそのことに注目していなかったのだ。ゴッホやセザンヌなどの絵が理解されるまでに何十年も掛ったように、重大な発明や発見は下に降りて来るまでには結構時間がかかる。

今日は200411日。昨日の1231日までにこれを終えようとしていたのだが、余計な事を書きすぎた所為かまだ終りそうもない。確かにギャラリーかわまつの歴史からは少々外れているかもしれないが、これも乗りかかった船、今止めたらもう二度と書けないと思うので続けることにした。私の中にはこの文章を書き続けて、思い吐き出したいと言う気持ちがある。文章にすることによって自分の歩いてきた道をもう一度確認したいのかもしれない。63年掛けて感じたり見たりしたことを読めばわずか1時間の文にしてしまうことに、いかに多くのことを無視するかという事を考えれば、こんなことしない方が良いという気持ちも生まれて来るが、やはり書いておいた方が良いと思う。これは一種の遺言書かもしれない。遺言書と云うと少し大げさな言い方かも知れないが、新たな目的とか、生きる意味をもう一度確認するためにはそれまでの人生の総括は必要であり、それ無くしては遣り残した事やもう少しやって見たい事が浮かび上がって来ないような気がする。

 

私が時々思い出すのは多分ロマン・ロランによるトルストイの生涯というような本を読んだ時、彼トルストイが80歳をこえてなお家出するという一種の情熱を持っていたことに驚いたことだった。その頃はまだ20歳代初めだったし、家にはお祖父さんもお祖母さんもいなかったので年取った人のことを想像するのは出来なかったが、何故か凄い人だなと思った。今60代の初めで人生の総括とか遺言書とかの言葉を使うのは彼のことを思えば、あれほど優秀の人でもなお80歳にして悩んでいるのだから少々早すぎるのかなとも思うが、やはり何時死んでもいいように準備する方が楽に生きられそうだし、目標のようなものを持って生きたほうが或る意味楽だと思う。

 さて私の現在の目標はというと、これが実に単純な事で、銀行からの借金を全部返して楽になりたいと云う事だけなのだ。バブルの時代に商売をしていた他のビジネスマンのように、私も借金で苦しんでいるというか気になっている。幸いな事に私の商売が小さかったせいでそれほどの苦しみでは無いのだが、それでも一応バブルを経験した商売人らしく困っている。ただ、本当に何が幸いするかは解からないもので、当時、外国の大きなオークションに出品される美術品は銀行から見て担保の対象になっていたのだが、それは主に油彩とか彫刻に限られており、版画はその対象から外れていた。なぜピカソの有名な版画『貧しき食事』が恒久的な価値の対象から外れていたのかは知らないが、とにかく担保の対象にしてもらえなかった。私はそれについて銀行の人に抗議したが無視された。結果としてそのことがバブル崩壊後のギャラリーかわまつの経営に大いにプラスになった。

 

もし在庫が全て担保に入っていたら、5年後には5分の1の値段になってしまった美術品故にギャラリーかわまつは倒産していたと思う。私の担保は買って10年もしないうちに5倍になっていた土地だけだったので、それが元の価値に戻っただけであり、商品である版画は毎年回転し、何とかコストの価値だけは維持していた。つまり、計算では土地を担保に銀行から借りた金は在庫を全て売れば返せるはずであり、商品がゼロとなり、そのかわり借金もゼロとなる勘定になる。土地と家だけは残ることになると言う事だが,売る商品が無ければお金を作る事は出来ない。つまり生活が出来ない。今までに培って来た画商としての知識とそれを使ってのビジネス界の中での人間関係をそのまま維持して行けば、つまり借金と在庫の価値を同じか、または在庫の価値の方を大きくして行けば、デフレを怖がって精算するよりも今まで通りの生活が出来る筈だと。

 そのためには今まで以上に注意深くかつ大胆に買うものを選ばなければならない。60歳を過ぎ、健康にも恵まれた経験豊かな私が逃げてしまったら、一体どんな人がこの美術業界を生き抜いて行くのだろう。それに私には他に行くべき場所も無い。 最期までこの業界に留まり、自分なりにそれを楽しんで見ようと思う。

 
 

   (2004年1月)