− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


47.科学>哲学
 

 水産大学やカリフォルニアでの学生時代でも、私は行動する哲学として実存主義の考え方を大切にしていたが、次第に私と同じような人間の意見よりも科学、客観的に証明できる科学とそのような考え方を大切にするようになって行った。私は本当の意味で哲学の基礎を学んだ事が無いから何かその理解力に欠けているかも知れないが、哲学は宗教程ではないが科学と比べればやはり主観的なものが強すぎるように思った。確かに行動するためにはそれはとても便利なものだが、主義主張がはっきりすればするほど沢山の小さな疑問を無視しなければならなくなる。だからこそ行動出来るのだからそれはそれで良いのだが、 もしかしたら無視した小さな事の中にとても大切のものがあるかも知れない。それにしてもDNA分子が美しい二重らせんの形をしている事をつきとめた科学の力はすごい。そこから発する沢山の行動がある。考え方に制限された行動ではなく、むしろ新たな考え方を創る研究が始まる。美とか真理とかは単純な形をしている。これも美は乱調に在りという言葉が好きな私にとっては本当は正反対な事だが、何故か素直に両方とも受け入れる事ができる。

 

 もうギャラリーかわまつの歴史の大体のところは書かれてしまった。ギャラリーにはあまり関係無いかもしれないが、一時は坊主になろうとした私にとってそれが出来なかった他の思い出がある。それは昔中学生の頃か、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読んだ時、荒んで破れかぶれになって銀の蜀台を盗んで捕まったジャンバルジャンに、ミカエル司教が「これは私が彼にあげた物である」と官憲の前で言い、「他の銀器もあげたのになぜ皆持って行かなかったのか」と、さらなる銀器を持たして彼を自由にしたことだった。後年さらにキリスト教には「左の頬を打たれたら右の頬を出しなさい」と言う言葉があると知り、宗教としては仏教はそれに勝てないような気がし、何とかそれに対抗できるものをと思ったが見つからなかった。勝負に興味を持つ私にとって明らかに負ける試合とか、対策も立てられない試合には出たくなかった。 禅宗を宗教としてでなく哲学として理解し、それから出発することも可能かとも考えたが、 そうすると小田原にある小さな寺の住職として何を私は話すことが出来るだろうかと考えてしまう。 その頃の私は35歳になったとはいえまだ若く、行動し、明日の結果が欲しかった。

寺に生まれ育った所為か、持って生まれた性格の故か分からないが、私の中には最初から皆にあるいは周りの人に向かって何かを話すというか、ありていに言えば説教しようとする図式があった。子供の時から寺に来る大人、多分優しいじいさんやばあさんだったのかもしれないが、先に私に挨拶しそれに私が答えるという風だったので何時しかそんな風な性格が育ってしまったのだろうか。でも結果的にはそれが私を努力することの好きな人間にしたのかもしれない。と、このように私はのうてんきに何時もどんな事も自分に都合の良いようにしか考えない。