もうギャラリーかわまつの歴史の大体のところは書かれてしまった。ギャラリーにはあまり関係無いかもしれないが、一時は坊主になろうとした私にとってそれが出来なかった他の思い出がある。それは昔中学生の頃か、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読んだ時、荒んで破れかぶれになって銀の蜀台を盗んで捕まったジャンバルジャンに、ミカエル司教が「これは私が彼にあげた物である」と官憲の前で言い、「他の銀器もあげたのになぜ皆持って行かなかったのか」と、さらなる銀器を持たして彼を自由にしたことだった。後年さらにキリスト教には「左の頬を打たれたら右の頬を出しなさい」と言う言葉があると知り、宗教としては仏教はそれに勝てないような気がし、何とかそれに対抗できるものをと思ったが見つからなかった。勝負に興味を持つ私にとって明らかに負ける試合とか、対策も立てられない試合には出たくなかった。 禅宗を宗教としてでなく哲学として理解し、それから出発することも可能かとも考えたが、 そうすると小田原にある小さな寺の住職として何を私は話すことが出来るだろうかと考えてしまう。 その頃の私は35歳になったとはいえまだ若く、行動し、明日の結果が欲しかった。
寺に生まれ育った所為か、持って生まれた性格の故か分からないが、私の中には最初から皆にあるいは周りの人に向かって何かを話すというか、ありていに言えば説教しようとする図式があった。子供の時から寺に来る大人、多分優しいじいさんやばあさんだったのかもしれないが、先に私に挨拶しそれに私が答えるという風だったので何時しかそんな風な性格が育ってしまったのだろうか。でも結果的にはそれが私を努力することの好きな人間にしたのかもしれない。と、このように私はのうてんきに何時もどんな事も自分に都合の良いようにしか考えない。
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