私の画廊は版画専門で其の他の美術品は時々しか扱わない。版画には同じ絵が何枚もある。例えば浮世絵だったら初版だとしても300部は刷られている。にもかかわらず歌麿のきれいな絵が何故300万も500万もする理由はその作品の質と大衆性と100年以上の時間に耐えた稀少性にある。植物性の絵の具で創られたその時代の浮世絵で、その当時のきれいな色を保っているのは、私の勘では300枚の中の5枚ぐらいではないかと思う。だからこそそのような値段が付くのだろう。
そうした考えから、私はビジネスのために稀少性があり皆が欲しがっているものを探そうと思った。売る努力よりも探す努力の方が私には合っていた。もしラッキーだったら、歌麿の良いものをポーランドあたりで50万で買い、500万で売ることもできるだろうし、悪くても200万ぐらいにはなるだろう、と。そういった目的をもった旅は疲れない。残念ながら私の好みと言うか興味は歌麿にではなくピカソにあったので、それほどドラマティックなことは出来なかったが、それでも日本が好景気の中にいた80年代は上手くいくと倍ぐらいにはなった。
何の為に金を儲けようとするのかははっきりしていた。それは自由に行動するためで、それ無しではガス欠の車に近かった。ピカソの『貧しき食事』は、版画の中では有名でかつ高価なものだった。それを良いものとしてガラス越しに美術館で観るだけでは満足しなかった。自分で買いたい、自分の物にしたいという欲望は、本当にその作品を自分が好きなのかと問う前にチャレンジするハードルとしてそこに在った。ハードルを越える事の方が多分その版画を知る事よりも価値が在ったかもしれない。
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