− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


40.決意
 

 また或る時は、ニュウヨークの画商から委託を受けて売ろうとしていた国吉康雄の10号ぐらいの油彩が、私の知らない或る画商から何か変だからと言って戻されて来た。その画商は、これを確か400万で買わないかと言われて預かったがどうも怪しく思い、人に訊いて私の物らしいという事が解り、私の所に来たのだった。確かにそれは私がある人に600万くらいで預けた物で、コストは500万もしたものである。まだ委託だから払ってはいないが、この件もまた私には訳が解らなかった。預けた人に電話で聞こうとしたが最後まで連絡が取れず、暫くしてその人は自殺してしまったと聞いた。すごく真面目な人だったのになぜ?と云う謎が残ったままだった。私は本当にラッキーだったのに、そのことさえも良く解らないままだった。今はその油彩をわざわざ私の所に届けてくれた人の名前さえ思い出せない。なぜこんな脇の甘い私が画商として生き残って来たのか解らない。あの車の事故の時のように運命の女神に優しくされたとしか思えない。

30歳まで曲りなりにも父の後を継いで寺の坊主になろうとしていた私は何処に行ってしまったのだろう。36歳のこの時もまだ、‘私だって金儲けが出来る‘ということが証明されたら父のもとに戻るはずだった。今までずうっと金とは縁のない生活をしてきたので、‘私だってちゃんとやれば金ぐらい稼げる’という事を自分に納得させてから寺を継ぎたかった。それが出来ないがために、与えられた場所に、経済的に安定した場所に入るのは、たとえどんなに人のための仕事が出来てもやはり十分には思えなかった。ー選択する力がある上でそれを決めるのならば良いが。


サンチ(インド)の風景

 
 最初は国連とか大学に勤めて給料を貰えたら、それも自分の力のひとつの証明かと思っていたが、なぜか画商になり、お金に翻弄されてみて、私も武蔵のようにこの世界で戦ってみようと自然に思うようになった。それに、戦いを好む私は坊主の世界には向いていないのではないかとも思った。その頃、私の弟は大学を中退して以来ずっと知的障害児の施設で働いていたので、彼に父の後を継いで寺をやってくれと頼んだ。安定した寺の住職として生活し、哲学を勉強するよりも、じたばたしてでも多くの人が参加しているこのビジネスの世界で、興味を持ち始めた美術品を球として勝負してみたくなった
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