− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


39.版画商
 

私がフジアートを辞めたもうひとつの理由はこの版画の仕事だった。ニューヨークに事務所を持って絵の買い付けをしていた頃は油絵ばかりで版画など見向きもしなかったが、オイルショックの後高価なものが売れなくなったのでフジアートも版画を扱うようになった。私はこれに惹かれ初めて本気で仕事をし始めた。仕事を通して版画の魅力が解ってくると、自分の判断で作品を買い売りたくなった。油絵をやっている時は買うのは全て会社の指示に従っていたが。そして少しずつ自分の金で作品を買い始めた。最初はシロタ画廊や昔のガレリア・グラフィカで買っていた。ニュ-ヨークに時には出張するようになると昔の仲間から藤田やルオーの作品を買い、それを友人の美術商に預け売るようになっていった。


 ある程度金額が嵩んで来ると、それは業界で云うアルバイトに近くなった。辞める頃には会社の仕事と自分の仕事の比重が同じ位になり、トラブルとなった。その会社の社長と話し合った時、私は云った、もうその頃は二人目の子供が生まれようとしている頃なので、月給が安すぎるからアルバイトを認めてくれるなら会社に残る、と。無論そんな事は認められる筈が無かったので私は会社を辞めた。退職金は無かったが、むしろそのほうが良かった。ー私は会社に勤めながら副業をやっていた。それも勤めながら得た知識を利用してー。やはりそれは少し後ろめたい気持ちがあった。たとえ給料が安いからと言うエクスキューズが有ったとしても。私は自分で判断して商品を買い、それを売っていたので、株屋でいう手張りと言うことかも知れないと思っていた。会社の商品を利用してバックマージンを貰うとかという事は一切しなかった。それでも確かに会社から得た情報を利用していた。だから会社が私に退職金を払わない事を知った時はむしろほっとした。これでチャラになったと。それでも少し後になってフジアートは私から作品を買ってくれたし、高価な作品も委託してくれた。


 

その当時五、六百万したその作品を私は平気で人に委託したが、結果として作品も金も戻って来ないことがあった。そのような事は想像もしていなかったので暫くは何が起こったのか解らず、ただ支払いが遅れていると言っていた。フジアートで私を指導してくれた上司が助けてくれ、なんとか解決したがその支払いのために23年は大変だった。

   私は作品を失ったがそこには誰一人として悪い人はいなかった。最後に私がその作品を委託した人の家に行って話しをした時、作品はそこに有り、お金がなかなか入らないから戻したい、この絵を持って帰ってくれと言われたが、私はもうフジアートに売れたからと言ってしまったので今更キャンセル出来ない、どうしても金にしてくれと云って帰ってしまった。その後彼はわざわざ名古屋から私の3階の小さな画廊を訪れに来た。その人は私より20歳位年上の人だったが、謝ってから山林の権利書を置いて帰っていった。作品も金も失ってしまった彼は、その後病気で倒れ、死んでしまった。権利書はまだ持っているがそこに行った事もない。

 
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