− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


38.ギャラリーかわまつ
 

最初は自宅を事務所代わりにして毎朝車で神田や銀座にあるよく知っている画廊を訪ねて売りこみをしていたが、何しろ商品となる版画がほとんど無いのであまり商売は出来なかった。自宅はその頃親の持っていたよみうりランドの近くの空き地に叔父を保証人として住宅金融公庫から500万円ほど借りて建てた35坪位の家に住んでいた。会社を辞める頃の月給は10万円くらいだったのでそのくらいは簡単に稼げるはずだと思っていたが、仕事をすると経費が掛かるという事が解っていなく、何でいつもお金が足りないのだろうと思っていた。 


毎日車で当ても無く出掛け、1日仕事らしいことをするのって随分疲れることだった。東京に事務所を持とうと思った。なぜなら私と同じ位かもう少し若い画商がちゃんと事務所を持ってやっているのだから。ある日車で神田を走っている時“空室”という張り紙が目に入りそこを訪ねた。靖国通りに面した小さなビルの3階、12.5坪で月10万の家賃、敷金はわずか30万円だった。そのビルの持主と直接契約し、1975年の春にギャラリーかわまつの画廊ができた。 

神田にはその当時アートライフとギャラリーきくがあり、私はしょっちゅう顔を出していたので土地感はあった。それに古本屋が沢山あるところなので好きな場所だった。親切な人に指導してもらいながら私とその人で内装を終え初めての展覧会を開いた。確か『黒の世界』とかのタイトルでルドン、ルオー展だった。そのころ私は色彩感覚が乏しく惹かれる作品は皆モノクロの作品ばかりだった。

 

 版画、特に外国版画を専門にする画廊はまだあまり無く、本格的に雑誌に広告を出してやっている所はアートライフ社だけだった。その他、私の周りでは少し遅れてポール渡部のポールギャラリーと、アートライフ出身のギャラリーきくぐらいだったような気がする。

 資金も無い私には版画を、特に外国の版画を輸入しそれを日本の画廊に売るというのが一番私に合った商法だった。それに私は本が好きだったので、版画はそれに近いものだった。他の日本人よりは英語に強いが、英語を話す国に行って英語で勝負したら絶対勝ち目がない。だがこれが絵を選ぶ仕事となれば、音楽家と同じで全く対等に出来るのだから。

 
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