− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


37.ニューヨークへ
 

梅原龍三郎も藤田嗣治も知らない私は、全く白紙の状態から画商の世界に入った。最初はわけわからない東京で絵の運搬。自動車はアメリカで運転していたのでハンドルの操作は出来るのだが、東京はロスのような碁盤の目のような街ではないので運転は大変だった。一本道を間違えるとなかなか会社に戻れずその周りをぐるぐる周っていた。

池袋の西武デパートによく納品に行ったが、最初は伝票に西部デパートと書いて注意され呆れられた。あまりにも仕事が出来ないので私は暇だった。唯一の仕事は外国から来た手紙とオークションカタログの整理だったが、これだって社長の方がよっぽど速いし理解も正確だった。要するに私は戦力にはならなかった。カタログや手紙を整理させたのは社長が私に勉強させたのだった、給料を払って。

東北のデパートでの展示会に出張して、売場で一日中立っているのって随分疲れるものだなあ、と実感した。特に客が来ない日は最悪だった。しかし座る椅子も置いていないのでひたすら絵を見ていた。安井賞展のタイトルで歴代の安井賞を取った作家の作品を展示していたのだった。そうこうしている内にとうとうニュウヨークへの出張命令が来た。絵も解らないし、仕事らしい仕事も出来ない私をフジアートの社長は単身ニュウヨークに送ったのだった。今30年前のことを書いている私は書くことによってうすうすは感じてはいたが、あえて拒否していた彼の私に対する好意を認めざるを得なくなった。彼は私の中にある何かを認めてくれたのだろう。彼と比較するのもおこがましいが、何から何まで正反対だったような気がする。たったひとつだけ一致するものがあるならば、それは人生に対するチャレンジ精神だろう。彼は戦っていた、そして違うやり方で私も。 


 1973年のニュウヨークは東京と同じく活気に溢れていた。マジソンアベニューウにある画廊街は今の57丁目の画廊街と違って店がすべて一階にあった。通りを歩きながらウインドウショッピングをし、面白い絵があると店に入って見、「I am a Japanese dealerbuyer」とか云っていろいろな絵を見せてもらった。その年はそれが通用するほど日本の経済力が付いていた。家族と離れ、世界で一番競争の激しい街、86丁目とパークアヴェニュウの広いマンションに事務所を持って私は出発した。素人だからというエクスキューズも、失敗は許されなかった。私にとって一番注意したのは自分が美術品を見る目がない、だから見る目のある人を選びその人の意見を聞こうということだった。見る目のある人を選ぶのも大変だったので、誰が信用出来るのか社長に聞いたり推薦された人に聞いたりして選んだ作品の写真と経歴を東京に送っていた。

 結局ニュヨークで仕事したのは1年ぐらいだったが、オイルショックがきて2年契約の事務所を解約し、全てを整理して帰国したのだがその経験は私を大人にした。僅か1年の間に1億円ぐらいの買い付けをし、事務所をきちんと途中解約したのだから。

私はフジアートの社長をエネルギッシュな変わった人だと思い興味深く見ていたが、何故かこれほど優秀の人なのに彼は私を礼儀正しく扱わなかった。彼なりの先輩後輩のやり方だったのかも知れないが、私の水大柔道部やピーターソン夫妻の下であまりにも人間性豊かな関係だったので、彼の態度にちょっと失望した。彼は子分を必要としたが私は親分を必要としなかった。彼の下で私は4年間月給を貰いながら勉強させて貰った、もしこれが学校なら私は月謝を払わなければ為らなかったのに。

1974年の終り近くに会社を辞め、と同時に独立しギャラリーかわまつを発足させた。

 

 

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