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私は両親と仲が良かった。特に母親とは日本を出るまでは私の最大の理解者だった。しかし不思議な事にそれは疲れる事だったのだろう、家を出てアメリカで貧乏しながらも一人で生活し始めてそれが解った。私は自分のではなく両親の価値観の中で良い子にしていたのだった。ずうっと私には帰る家があった。自分の部屋があり、寝疲れて起きても何か食べる物があり、美味いとも思わず食べてまた出て行く。それが普通で当然だった。 |
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30歳になって旅をして再び家に帰って来た、二人で。私が一番最初にやらねばと思った事は生活費を稼ぐことだった。父はまだ元気で私の出る幕はない、僧堂での修行も興味がない。興味があったのは大学の先生になることだった。父が元気な内は大学で何か教えながら勉強するのも悪くはないな、と楽天的な私が再び顔を出した。自分の実力は考えないようにした。とにかく哲学とかにあこがれている私にとって、そして実際にアメリカの大学でそれにチャレンジし何とかその学部で学位を取った事にすがり付いていた。学校の先生になると云う事には学生時代に読んだルソーの『エミール』に感動して以来ずっと心に思っていたことだった。ましてや大学の先生になれたら、これはまさに最高だと思っていた。自分の実力に不安を感じながらも、私は水大時代の体育の教授で且つ柔道の師範でもあった人に大学での就職を頼んだ。その人は私にある大学での仕事を見つけてくれた。それは北海道の北にある大学での英語教師の仕事だった。 |
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もし私が本当に教育と云うものに興味を持っていたのなら、そしてある意味でもう少し純粋であったなら、少なくともその時は北海道に行っていたと思う、たとえ後になって寺を継ぐ事になろうとも。が、私にはそれが出来なかった。一つには英語を教えると云う事に興味が無かったし、その力も無かった故か。第二に、そして最も大きな流れとして、1970年は力をつけて来た日本が世界に出ようとするまさにその時で、その世相が私の北海道行きを止めたのだと思う。 |
私の学生時代の精神的な師匠は全て本の中に居たが、例外は柔道場で会った先生だった。なにか特別なことを云うわけではなかったが立ち振る舞いが素晴らしかった。父親よりも年上で且つ純粋なその人の努力を無にしたのだった、自分で頼んで置きながら。しかし30歳になったばかりの私は―恐らく普通の人よりも普通の世界の経験が少し足りないかも知れない私は―自分の思いを大切にしようと思った。もう誰にも頼む訳にはいかなかった。 ご免先生、とそれで終らせた。 |
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その後ある商事会社にはいったが1月しかもたなかった。毎日新聞の求人欄を見ながら私には何が出来るのだろう、どんな仕事が適しているのだろうかと思った。ある日求人欄にニューヨークに事務所を開くための広告があった。画廊の仕事だった。美術館や博物館はいろいろ行き、そこで休みながら色々なものを観ていたが、そのような美術品を扱う事など考えたことも無かったが、私はニュヨークでの仕事ということに惹かれた。他の人と比べて私のセールスポイントと云えば、アメリカを少し知っている、英語を少し話せる、そしてやはり昔パサデナで美術史のコースを取った時、アフリカのお面にすごく惹かれそれがずっと心の中で生きていたのだろうか、その面に対する好奇心がその会社フジ・インターナショナルアートに入らせた。
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