− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


24.さらばインド

 

427日、熱は下がったが今度は喉に何か瘤のような物が出来たと言う。たぶん喉をやられて甲状腺が脹れているのだろうと思うが、良く解らないので不安だ。それでも呼吸困難になったり熱が上がったりしたらジフテリアなどの可能性もあるので熱だけは注意して見る。夜に平熱になり、明日は喉さえ治れば出発かと思わせる。 

 

 428日、熱はもう上がらず頭もすっきりしているが、ただ喉だけが変だと言う。パトナの旅行社に行って夜7時出発のカルカッタ行きの汽車を予約する。金も体力もあまり残っていないので、もし病気になったらカルカッタから日本に直行するしか方法がない。これは最初に出発するときから頭の中にあった思いで、ともかく二人とも生きて日本に帰ることが一番大切な事であったから、カルカッタ―東京間の飛行機の切符は持っていた。カルカッタがバスと汽車を使って行かれる日本に近い都市だった。

宿は12時までに出なければならないのだが、愛子が重い病いだと言って2時まで居られるようにし、お客が来るまでずっといてよいと云う事になった。愛子は2時まで眠り、我々は5時頃宿を出る。昨夜チキンと魚のフライを買ったレストランに行き、同じ物を食べて駅へ。汽車は夕方7時ぴったりに出発。

 

                ホテルの前を走るバス

 

 429日朝、愛子の喉の調子が少し良くなる。カルカッタ近くのハウラ駅に着く。ここが終着駅。1等の休憩室でシャワーを浴び、ゆっくりと朝食を取る。インドでは1等車を使い、駅の休憩室を十分使う事が上手な旅の仕方のようだ。駅から空いている時を見計らってタクシーでタイ航空の事務所に行き予約の確認をする。カメラの三脚を150ルピーで売る。空港へのバスが12時半に出ることになっていた。期待していなかったので15ルピーほどタクシー代儲かった。カルカッタの飛行場はたいして大きくなく暇な感じだった。215分、飛行機はインドを離れる。さらばインドよ。実に人間臭い国よ、牛と共存している人々よ、髭の濃い、目玉のぎょろっとした少しも柔和なところのない、個々ばらばらに戦っているインドの人々よ、さようなら。 

 


カルカッタ、ホテル前の牛 
        

夜8時、バンコックのアトランテックホテルに入る。ここは一緒になったイギリス人のヒッピーに教えてもらい一緒に来た。150バーツ、2.5ドルなり。ここの食堂の料理は期待していなかったためか、とても美味く感じた。

430日。昨夜は蚊で眠れず、それでも朝日が射し込んで来るので起きてしまった。午前中は一人で町に出、午後二人でマレーシア領事館を訪ね、汽車で通過するだけならビザはいらないと聞く。7日間はこれで良し。いかに金を使わずに長く滞在するかが目下の問題だった。日本はもう直ぐ其処にあり、飛行機に乗れば僅かの時間で着いてしまう、そうすると旅は終わり。体も何とか持ちなおしたので最後までベストを尽くそう。シンガポール領事館に行くともう閉まっていた、が、ビザは必要と知り、3日後の月曜日にもう一度行くことにする。

 


タイ マレーシア
     

1日、ワットプラケオを訪ねエメラルドの仏像を観、夜は勝新太郎の中国で作られた映画を観た。初めて勝新の負ける映画を観た。ビールと水炊きとトカゲの足を食べて帰る。

 52日、大丸デパートへ行く。やっとちゃんとした日本食が食べれた。日曜日だった為か、あちこちに日本の商社マンとその家族がいて日本語を喋っていた。 

 53日、シンガポール領事館へ行った後、日本人会館で新聞や雑誌を読み、また日本食を食べる。マレーシアへの切符を買う。裏町にまぎれ込み、お茶を飲んだりしながらぶらぶらする。帰り際に見付けたレストランの焼き豚は美味かった。

 54日、再び蚊に悩まされて眠れず、今日は出発しないことにして昼まで眠る。やっと起きてシンガポール領事館にビザを取りに行くが1時半まで閉まっているので、隣の小さなレストランでブランチとするが、スープは血の色をしていて生煮えのレバーが入っており、食べれた物ではなかった。

 


沖縄(当時はアメリカ領)


さて、その後私達はペナン、クアランプール、シンガポール、香港、そして沖縄を訪ね520日東京へ、そして無事両親の待つ小田原に着いた。インド以降の旅についてここに書かなかったのは私にとって飛行機での旅は本当の旅とは云えず本当の旅はインドを離れた時点で終り、後は消化試合のようなものだった。

   家に着いた時の所持金はマイナス1000円で、その足りなかった分はロス時代の友人に東京駅まで迎えに来てもらい、その人に金を借りて小田原への切符を買ったのだった。それで9ヶ月に及ぶ私達の世界一周旅行が終った。