− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


25.インド紀行その1

 

2月16日、ニューデリーで汽車によるインド一周の切符を学割で買う。残金は500ドルを切っていた。このインドこそが私の目的とした最後の、締めの冒険の地であった。故に軽く通過するつもりは無く、最後の体力と気力を賭ける事にした。住みなれたロサンジェルスを出てから5ヶ月半が過ぎていた。 インドでは特に生水だけは飲んではいけないと言われていたので、 必ずアルコールランプで湯を沸かし、茶をたてて飲んだ。 市場でパンとバター、それに鮪の缶詰などを買ってきて部屋で食べたりもした。

 2月18日、アグラのタジマハールを訪ねる。内部で多くの欧米から来たヒッピーが座禅を組んでいた。 アメリカの大学に通う間、沢山のアメリカの若者の近くにいたが、友達になったのは一人もいなかった。 多分その時間が無かった事と、言葉でのコミュニケーションが上手く出来なかったからだろう。 それに武者修業のつもりでその日の生活を送っていた私と、 合理的で無駄の無い生活のために大学に通っている彼らとはほとんど合うところがなかった。 しかしヒッピーとして世界をうろついている彼らには少しだけ何か仲間意識のようなものを感じた。 何もこんなタジマハールで座禅など組まなくてもよいのにと思いながら。

 翌日インド的石彫の沢山あるカジュラホに向かった。 エロチックな彫刻の間を、 子供連れの母親達が何組も歩いていた。 一種の性教育なのだろう。 さらに南に下り、仏教ゆかりの地であるサンチを訪ねる。そこでバスで団体旅行をしている日本の仏教関係の人達に遭った。

 
タージマハル ヒッピー(タージマハルにて)

 

1970年代に入ると俄然日本人の姿が外国で見られるようになった。それはほとんどメイド・イン・ジャパンの車があちこちで見られるのと時が一致していた。アラブの国を旅行していた時でさえバビロンの遺跡を訪ねている中年の日本人に遭った。彼らはタクシーでそこを訪ねあっという間にタクシーに乗って帰って行った。バビロンを訪ねるために何年も準備した私にとっては何か聖なるものが汚された感じがした。

    団体旅行でインドの聖地を巡っている人達も基本的には同じ種類の人達だと、汚された私は思ったのだが、その中に鎌倉の円覚寺の僧侶がいて、 たぶん私も建長寺と少し関係がある事を話したのかもしれないが、 別れる時私の手にお金を渡してあっという間に去って行った。 200ルピーという金は我々が泊まるホテルが一晩50ルピーという事を考えると、彼は私達に4日分のホテル代をくれたことになる。 当時のルピーのレートは200ルピー約30ドルだった。 私達は気付か無かったが、 もう半年も同じような服を着ていたので日本から来たばかりの人には随分とみすぼらしく見えたのだろう。ニュウデリーのブラックマーケットで40ドルを持ち逃げされて以来、それが帰って来たようだった。その日はお祝いにホテルで一人8ルピーの夕食をとった。

 


カジュラホ      

      

サンチの寺院

 

サンチからさらに南下し、石彫で有名なアジャンタを訪ねた。その頃になるとインドの生活にも慣れた。トイレットペイパーが切れ、ホテルのトイレにもそのような物は無くただ水が入ったポットが置いてあり、私としては郷に入らば郷に従えしかなかった。 もう一つの石彫の町エローラを訪ね、ボンベイに向かう。すでに所持金は500ドルしか無かった。

2月27日、朝6時ボンベイに到着。ホテルが少なく、適当な所を探すのに2時間もかかった。途中道端に仰向けで死んでいる老人を見た。蝿が一杯たかり、すごく痩せていて明らかに餓死の状態だった。誰も立ち止まらず通り過ぎて行った。すこし離れた所では学生達がプラカードを立ててデモしていた。

   ヨーロッパから離れるに従って私達はよく日本の領事館を訪ねた。 世界の状況を知るためにはそれが一番の早道だったし、またそこで借りる日本語の本は旅の疲れを取るために必要だった。 時には領事館の人たちやその家族と一緒に食事しながら話をするのも楽しかった。 もう一つよく訪ねたところは日航の事務所で、新聞を読んだりパンフレットを調べたりしながらいざという時は一気に日本に帰れるよう準備していた。 何時でも日本に帰ろうと思えば帰れるということが、所持金ゼロになるまで旅行しようという思いになり、 割合気楽にインドの南や北に足を延ばすことが出来た。