− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


24.神々がいる国

 

1月28日、この日は私の30歳の誕生日だったが、日記を見る限りその事に一行も触れていない、たぶん思い出しもしなかったのだろう。それほどこのイランの砂漠を横切る事が大変だったのかも。 ザヘダンからパキスタンのクエッタまで確かに鉄道は有るのだが、汽車は週に二本しか出ておらず、次の汽車まで4日待たねばならなかったので、 結局またバスでクエッタまで行くことにした。遊牧民やその辺に住んでいる人達と一緒にバスに乗り、イラン国境まで行く。彼らは何のチェックも受けず国境を越える事が出来る。

パキスタンに入ってまた次のバスを待たねばならなかった。この辺ではバスを待つというのは4、5時間の単位だった。その間バスの中で知り合ったパキスタン人とその辺を散歩する。予定―我々が思っている―の時間になってもバスは動こうとせず、何を言っても偉いのは運転手で只出発を待つしかなかった。 夕方5時に出発予定のバスは結局次の日の夜に出た。 こんな風に時間を無視したバス旅行で、最後は石油運搬のトラックに話をつけ3日後にやっとクエッタに着いた。

 
パキスタン国境

 

2月2日、クエッタから汽車でモヘンジョダロに向かう。 人類学を専攻したからにはあの教科書で有名な所に寄らなくてはと、まだこの先インドと東南アジアが控えているというのに。 しかし何故か無謀な感じはなかった。私達には時間は十分に有ったし、それ以上にしなければならない大切な事も無かったし、所持金は既に800ドルを切っていたが、 この辺での1ドルは非常に使いでが有り、 一日二人で5ドルくらいしか使っていなかったからだろう。 私には無謀な事をする理由が無かった。 あの冒険家の植村さんのように、目的とする山頂に登ったら無事に帰り、次の山に登る計画を立てるようにとにかく無事、生き延びることが一番大切に思っていたから。

    夜中2時、モヘンジョダロの駅に着く。 駅は周りに数軒の家があるだけの草原にあった。 待合室にてアルコールランプでお湯を沸かし、 ココアを飲み七時まで眠る。 朝7時頃トンガという馬車に乗って7マイル先の遺跡に向かう。 そこには研究者用のレストハウスが有りたまたま部屋が空いていたので頼んで泊まらせて貰う。 夕方、我々の部屋を用意してボーイがコブラを見つけ殺した。 その血で汚れている部屋を止めて他の部屋に移る。旅行者も学者もその時期いなかったので自由に歩き周り、 時には掘ったりしてパイプのようなものを見つけおみやげとする。 2泊3日滞在したあと北上しラホールに向かう。

 

 
クエッタの市場          
     糞(燃料)を燃やすモヘンジョダロの家

 

2月8日、朝6時ラホール着。 ホテルを決めた後カメラを持って町に出る。この辺から蝿が多くなり、その後インドではずっと悩まされることになる。 夜、中国レストランで旅の途中で遭った日本人に再会。彼らはアフガニスタン経由で来たという。 私のようなヒッピー風な旅行をしている者には一般的なルートだった。私は一つにはそれが嫌で、誰も行かない南のルートを取った。

2月12日、朝6時半デリー着。とうとうインドまで来た。やっとアジアまで帰って来た。パキスタンまではどんなに良い人と遭っても異なる価値観を持った人達との思いが強かったが、一神教であるキリスト教、ユダヤ教、そしてイスラム教の文化圏から離れ、多神教のヒンズー教の世界であるインドに入ると何故かとてもリラックスした。 特に最初に着いたオールドデリーでは牛も人もほとんど同じ価値観の中でうろうろしていた。寺に生まれた私が自分の価値観を確立しようとした中で一番嫌だったのは、何か価値観がはっきりしていない事だった。 行動をしなければならない時、右に行くのか左に行くのか、それを決める基準が欲しかった。 正義とは何か、愛とは何か、今しなければならない事は何か、などという解決したい問題を解くためには一神教、キリスト教の世界から出た人達の言葉が私を支えていた。それなのにインドに来てその曖昧な世界が私の疲れを和らげた。

 

 

ラホールの町にて

 それまで私は「見るのだ、見るのだ、目をそらしてはいけない」と苦しい事とか、 醜いと思われる事をあえて、または好んで見ようとしていた。
 それらを恐れずに見、きちんと解決する為に私は勉強しているのだと。今にして思えば、私が解決と称した事はある物事の100の原因を主な3つの原因に集約し、さっぱりさせる事だけだったのかもしれない。それが何故かインドに来て、集約しようという気が無くなってしまった。 それは多分、あまりにも雑多なものが苦も無く調和されているように見え、100の内の97を省くことがとても傲慢に思えたのかもしれない。