私は人間を生物の一種と見なしているので、
政治的には結構アバウトで状況によりいか様にも変化できるようで―勿論あまり極端でなければの事だが
―多分その時私はアラブの人達に好意的な意見を言ったのだろうと思う。かにギリシャ以来私達はアラブの決して金持ちとは言えない普通の人や学生に親切にされ少し驚いていたのだから。
十二月二十七日、対岸にある王家の谷を自転車で訪ねる。何処からともなく少年が現れ案内すると言う、それに墓から出たというアラベスクを買えと言う。
結局それとボールペンと交換し、さらにその周りにある小さな洞窟に案内されミイラのような麻布に包まれた骨を手に取って見る、少年はこれを記念にと、その麻布の一片を引きちぎりくれた。
一日中その辺を自転車でうろうろして写真を撮っていると、いつの間にか子供たちが沢山集まって来て「バクシーシ」とお金をねだるので、私も「バクシーシ」と言って手を出すと、観光客にそんな風に手を出された事のない子供達は、怪訝な顔をしてじりじりと後ずさりしてパッと逃げて行ってしまうか、あるいはポケットを探ってお金か何かを探そうとするかのどちらかであった。
母親などが一緒の時、彼女達は初め戸惑っているが、流石に直ぐに理解し笑い出してバクシーシと言うのを止めてしまう。
十二月二十八日、エジプトでよく一緒になった日本人たち、
内田君たちと付き合ってアスワンに向かう。
本当はその日はカイロに帰る日だったが、何となくアスワンまで行ってみたくなったのだった。アスワンハイダムからスーダンに船で向かう彼らと別れ、私達二人はまたアレキサンドリアに向かって汽車に乗った。
十二月三十日、そこからキプロス島経由でレバノン行きロシア船に乗る。船の中で一九七〇年の大晦日を迎えた。なんの心配もない日だった。寝るところと食事が確保されていればそれで十分だった。
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