− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


22.ナヒ

私は人間を生物の一種と見なしているので、 政治的には結構アバウトで状況によりいか様にも変化できるようで―勿論あまり極端でなければの事だが ―多分その時私はアラブの人達に好意的な意見を言ったのだろうと思う。かにギリシャ以来私達はアラブの決して金持ちとは言えない普通の人や学生に親切にされ少し驚いていたのだから。

十二月二十七日、対岸にある王家の谷を自転車で訪ねる。何処からともなく少年が現れ案内すると言う、それに墓から出たというアラベスクを買えと言う。 結局それとボールペンと交換し、さらにその周りにある小さな洞窟に案内されミイラのような麻布に包まれた骨を手に取って見る、少年はこれを記念にと、その麻布の一片を引きちぎりくれた。 一日中その辺を自転車でうろうろして写真を撮っていると、いつの間にか子供たちが沢山集まって来て「バクシーシ」とお金をねだるので、私も「バクシーシ」と言って手を出すと、観光客にそんな風に手を出された事のない子供達は、怪訝な顔をしてじりじりと後ずさりしてパッと逃げて行ってしまうか、あるいはポケットを探ってお金か何かを探そうとするかのどちらかであった。 母親などが一緒の時、彼女達は初め戸惑っているが、流石に直ぐに理解し笑い出してバクシーシと言うのを止めてしまう。

 十二月二十八日、エジプトでよく一緒になった日本人たち、 内田君たちと付き合ってアスワンに向かう。 本当はその日はカイロに帰る日だったが、何となくアスワンまで行ってみたくなったのだった。アスワンハイダムからスーダンに船で向かう彼らと別れ、私達二人はまたアレキサンドリアに向かって汽車に乗った。

十二月三十日、そこからキプロス島経由でレバノン行きロシア船に乗る。船の中で一九七〇年の大晦日を迎えた。なんの心配もない日だった。寝るところと食事が確保されていればそれで十分だった。

 

 一九七一年一月一日、朝ベイルートに到着。ホテルを探している時シリアからの青年二人に遭い、 共に安い宿を協力して探し、そこに四人で泊まることにした。元日でほとんどの店が閉まっていたのだが、何とかアラブ風サンドイッチを手に入れた。それが一九七一年最初の食事だった。

 小遣い帖でその頃の一日の支出を見てみると大体十五日間を百ドルでやっていた。二人で一日六ドル六十セントとなる。

 

 

トルコやエジプトを歩いてきた我々にとって、ベイルートはより繁栄しているように見えた。資本主義の世界にまた戻って来たようでやたら大きな広告が目に入った。

一月三日、六人の相乗りタクシーでシリアのダマスカスに向かう。所持金二人ですでに一〇四一ドルしか無かった。 ホテルを見つけた後、夕方の散歩でナヒという名のシリア兵に遭い、彼らの住んでいるアパートに案内された。六畳二間ぐらいの部屋に十人が住んでいるようだった。次から次へ色んな顔が現れては挨拶するので驚いた。 最初に会った兵士がよく英語が話せたので、 アラブ、イスラエル問題について我々が話すのを彼がまわりの兵士達に伝えていた。

次の日もまたナヒのところを訪ね、また皆と話す。 彼らシリアの兵士にとって日本人で、更に長くアメリカにいた私達カップルはとても珍しかったのだろう。 そして多分それ以上にインテリである兵士ナヒは世界の中での自分たちの状態を知りたかったのだろう。 彼らシリアの兵士にとって自分達の考え方と世界をリードしているアメリカの考えかたをより客観的であるはずの私達から直接聞きたかったのだろう。私はまるで外交官になったような気分で出来るだけ客観的に話したのだった。

   一月五日、ナヒと一緒に夕食を取った後、 路上で寝ている少年に会っていろいろ聞いている内に、愛子はすっかりその少年に同情してしまった。

 私がただの同情は一種の遊びだと言ったらすっかり怒ってしまい、ホテルに帰ってセーターを持ってきてその少年にあげようとしたが、その子はもう見つからなかった。少しして同じような子供を見つけそのセーターを掛けてあげた。 私も愛子を怒らした手前、何かしなければと折角皆でホテルで食べようとしたみかんを袋ごとその子にあげてしまった。
 
 その一連の行動がナヒを感激させ,彼の兄がコマンドに参加した時彼に記念として残したメダルを愛子にその時のメモリーとして渡した。
 一月六日、ナヒと一緒にバスでパレスチナ難民キャンプを訪ねる。 そこは予想していたよりも清潔で天気も良かったせいか皆のんびりとしていた。 ここには老人と子供と女しか住んでなく、男達は皆コマンドとして戦っていた。明日はバグダッド出発なのでその晩、ナヒとその兵士達とお別れパーテイを開いた。彼らはマンドリンと陶器でできたドラムで歌い、私は『箱根の山(註:箱根八里)』を歌った。皆に一筆書いてもらい、私も彼らのために書いた。