− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


S西欧紀行

もっと滞在していたい思いを振り切って、リヒター一家と別れてベルリンに向かった。ホテルの予約は一切しなかったので、夜中に着いたベルリンでの安いホテル探しは大変だったが、やっと夜中一時ころホテルに入れた。安全のために次の日のホテルを予約しておくというのは私にとってはやってはいけない事の一つだった。たとえ女連れとはいえ世界一周旅行というのは私の武者修業なので、 ときには良いレストランに入るかもしれないがソ連以外、予約だけはだめだった。

東ベルリンを訪ねる。西ベルリンに戻るまで僅か六時間の訪問だったがもう一度ソ連を訪ねたような感じで実に疲れた。

十月二十五日、パリ着。一泊二十フランの宿に約一週間滞在。

十一月三日、フェリーでドーバー海峡を渡り、翌朝ロンドン着。

十一月九日、パリ経由でマドリード着。

十一月十二日、バルセロナ着。

十一月十四日、電車でローマに向かった。

これら主要都市での訪問先はほとんど美術館と博物館だった。 そこにはタダかすごく安い料金で入れたし、環境もとても良かったので金を使わないで楽しめた。あとは街を歩き回っていれば十分楽しかった。

十一月二十二日、一週間滞在したローマからナポリに向かう。そこを基盤にしてカプリ島とかポンペイを訪れた。何と言ってもナポリでのピザは美味かった。

十一月二十五日、イタリア半島を横切ってアドリア海側にある港からギリシャのパドラスに行った。 こんな風に私達の旅は次に訪ねる町を前日に地図を見ながら決めるので私達でさえ一週間後は何処にいるのか解らなかった。 そこはペロポネソス半島の北の方でコリントス湾の向こう側にはデルフィンという町があり、次の日そこを訪ねた。 今までずうっと大きな都市ばかりに行っていたので人の沢山いる所には疲れたのかも知れなかった。そこに在った小さなコロシアムに座ってぼんやりと日向ぼっこしていた。泊まっていたユースホステルは九時には出なければならないのでそんなふうに時になるのだった。その日ホテルのラジオで妙なニュースを聞いた。何か日本の有名なノーベル賞候補にもあがった文学者が自殺したという。名前は聞き逃したがどうも三島由紀夫のようだった。日本はまだ遠くにある国だった。

 


ナポリの路地
   

十一月二十九日、デルフィンよりバスでアテネへ向かった。

 アテネではイランやイラク、 エジプトそしてインドのビザを取りに大使館や領事館を回った。いよいよ本格的な旅の準備だった。

国際学生証を持っていると汽車賃が安くなると言うので何とか時間は掛かったがそれを取った。このような情報は行く先々で会う我々と同じような若い旅行者から教えて貰った。

その多くはヒッピー風ですぐに友達になり、 一緒に行動したということは、我々もヒッピーに見えたのだろう。私達は自分達をヒッピーだとは思っていなかった。何故ならマリワナをやらなかったから。

それは私達二人が煙草を吸う習慣が無かったからかも知れない。

それに彼らは良い人達だったがなぜか気が弱く、虚無的な感じだった。 ただし格好はほとんど同じだったが。

 

  十二月五日、 夜汽車でイスタンブールへ向かった。 前日所持金を確認したらもう三分の二使ってしまい、二人で千二百ドルしかなかった。まだヨーロッパの旅がやっと終ったばかりだと言うのに。 四十時間汽車に揺られヨーロッパの一番はずれの街に着いた。
 車内で知り合ったイギリス人のノーマと言う名の女性と、イランからの留学生でイスタンブールに住んでいるメヒド君と行動を共にし、 彼の紹介のホテルに三人で泊まった。 昼間は観光して夜はメヒド君の友達などと一緒に民族舞踊大会を見に行ったり、 彼が他の学生と一緒に住んでいるアパートに寄って皆で自分の国のことや資本主義、社会主義の批判などをしながら夜を過ごした。