− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


R北欧紀行

十月三日、 夜行汽車でモスコーを去りヘルシンキに向かう。ヘルシンキに着いたら何故かすごく楽になった。まずここでは英語が通じるし、人々の態度がソ連とは全然違ってフレンドリーだった。レストランでのワインや珈琲も美味く、女性も美しかった。 また我々の良く知っている国に帰ってきて旅を始めた。

ストックホルム、オスロー、ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、このハンブルグへの汽車の中で我々はブレーメンに住んでいる建築家のドイツ人一家と知り合い、何故かとても親しくなった。

二日後にブレーメンの彼の家を訪ねた。その家族が何故私達を招いたのかはっきりしないが、大きな要因としては我々が正式なカップルだったからだろう。無論それに二人とも英語が話せるし、汽車内で日本に帰ったら寺を継ぐかも知れない、と話したので生粋の日本人だと思ったのかも知れない。特に建築家の彼は日本の古建築に興味を持っていた。   

 カップルというのはどうも他人から見て信用し易いようである。まず女連れが危険な事をする訳がないと思うし、二人で喋ると一人が黙った時でももう一人が話すので会話が途切れない。

それに、男と女では興味を持つものが全然違うので会話の幅が実に二倍以上になるようだ。私はファッション等には全然興味を持っていなかったが、 愛子がいつもそれについて何か言っているので、お付き合いで聞いているうちに色彩とかデザインとかにもほんの少しだけ注意を向けるようになった。

ついでだから言っておくと、女連れだと何かあっても簡単に方向転換出来ないので、行動が慎重になり、つまりは危険を避けるようになる。もしかしたら私の貧乏旅行が何とかうまく行った原因はこれかも知れない。

 


ブレーメン
   ブレーメン市のリヒター家に滞在中、色々な職業の人と会った。 皆今の事とか将来のことを話しているし私も訊かれたので、 初めてもし無事に日本に帰ったら具体的に何をするんだろう、したいのだろう、と咄嗟に考えながら話した。 
 家に帰ったら親父の跡を継いで坊主になろうと思う、 そして余裕ができたら町の政治に参加しようと思う、などと本当なのか嘘なのか自分でも解らないことを言っていた。
 私は世界一周の事しか考えていなかったのでその後のことはまるで他人ごとだった。そんなちゃらんぽらんな答えは真面目に質問してくるドイツ人達を納得させなかった。
 私が日本を出発した時は確かに片道切符だった。 死ぬ気も無かったが生還する自信も無かった、というか後のことは何も考えなかった。
 それが七年後に本当に出発し、さらにあの見知らぬロシアを訪ねここドイツに来て、考えもしなかったドイツのごくまともな人達とまともな話をしていると、 もう明日の事は考えないのだ、などと言えなくなっていた。何の自信も無かったのに、 彼らはそんな風に私達を見ていなかった。彼らには私達がエリートだと思ったのかも、さもなくばあれほど真剣に話し掛けて来なかったかも。
 
 アメリカを出発してわずか一ヶ月しか経っていないのに、 何故か慎重にやれば絶対に日本に辿り着けるという無意識な思いが生まれてきた。その根底に在ったのは例え七年も費やしたとはいえ、ちゃんと大学も卒業出来たし、このようにある程度の資金を持って旅に出られたということが無意識の自信になっていたのかも知れない。
 それでもまだヨーロッパを旅行中は最初の約束通り、二人で旅するのはヨーロッパ迄で、その後アフリカや中近東、 インドなどは危険なので私が一人で行く事になっていた。愛子は先に日本に帰って私の帰りを待つと言うふうに
 
コペンハーゲンにて