− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


Qソビエト

 ソ連で待つことを学んだ。 アメリカでは皆無駄なく合理的な動きで仕事をしていたのでそれが世界共通の価値観だと思っていた我々は初め、 怒り戸惑ったものだが、 怒っても何にも成らないことが解ってからは慣れてしまった。

それがソ連という社会主義のやり方なのだと。 考えてみれば不思議な事で計画経済というのは無駄を少なくするためのものなのに、 実際は無駄だらけでテーブルに座って珈琲が出てくるまで十五分もかかるのだから。でも資本主義だって確かに時間を大切にしているが、反対に物を無駄にしているのだからただ習慣の違いだけかも、かと。

 

その習慣の違いで予約してあった観光バスに乗り遅れた。アメリカ娘と我々は近くの博物館に行ったのだが、門番が何か言って入れてくれない。

何度聞いても駄目でとうとうロシア語の辞書を出してやりあっているうち周りに沢山の人達が来た。 ちょっと恥ずかしいことだがそこは出口であって入り口ではなかった、と言う実に単純な事だった。

普通美術館などは入り口と出口がほぼ同じ所に在り、建物の前と後ろに分かれているなんて。やっと入ったが今度はそこでまた何かを言われた。十分ほどごちゃごちゃしてやっと解ったことはコートを着たまま入ってはいけませんということだった。

ロシアの美術館のほとんどは旧貴族の城や別邸なので、そこを訪れた人は個人の家を訪問したのと同じでコートを着たまま居間に入るなんて事はなく、これは我々が礼儀知らずだと思われてもしかたがなかった。

とにかくアメリカを知ったと言う事で世界の常識を知ったと思っていた私達がおかしかったのだった。 が、当時の私はアメリカでの体験をとても大切にしており、何が何でもぺらぺらブロークンイングリッシュを喋って自分の思う通りに物事を進めようとしていた。しかしそれはロシアでは一切通じ無かった。

 


クレムリン大聖堂
 

 エルミタージュ美術館を見て、その良い作品の多さと、 エジプト館内のどの様にして運んだのかと考えてしまうような巨大な像や円柱等、  さらにデパートに行ってみれば沢山の並んでいる人々と種類も数も少ない商品、 その極端な差に驚いてしまった。

九月三十日、レニングラードからモスコーへは飛行機で移動した。 飛行場でインツーリストの人を待ち、 ホテル・ナショナル―昔レーニンが革命を起こした時臨時政府の本拠になった最も古いホテルで、今では最も安いホテルだと言われている―に案内された。 私は思い出した。 あの『罪と罰』の中でラスコールニコフが行動することに執念を燃やしていた事や、  レーニンらロシア革命を主導した人達が 「人民のなかへ」と叫びながら本を閉じて外に出たことを。 

        

モスコーでの目的はまずクレムリンを見、次にボリショイ劇場の観劇、そしてモスコー大学を訪ねる事だった。最初の二つは誰でも出来ることであったが、されど、さすがにボリショイ劇場でバレーを観た時は、これが言葉の解らないアメリカで何とか生活し大学も卒業したご褒美なのかと思った。

次にモスコー大学にソ連 への汽車の中で知り合った友人と一緒にその知人を訪ねた。大学を見、そこのキャファテリアで食事をした後彼の住んでいる大学の寮に行った。 我々四人でいろいろ話している内、 自然に話は政治の方に向かった。その時その学生は急に黙り、口に指をあて我々にも黙るよう合図した。 

うまく話題を転じ、お開きにした。皆が外に出てからその学生は言った。 すまない、しかし盗聴されているかも知れないので用心したと。 ここはソ連なのだともう一度思った。