− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


Pポルノ雑誌

 

  とうとうヨーロッパに来た。前から準備していたユーラルパスを使ってブリュッセルに向かった。ここに来た主な目的は、パリは勿論のことロシアを見てみたいのが第一だった。 

このトルストイを主に重厚なロシア文学を創出した国を見たかった。何故ドストエフスキーがこの国から出たのか。無論悲しみはどこの国にも有る事だし、日本にだって『楢山節考』という救いの無い小説も有るのだから別にそれは不思議な事ではない。

しかし同時にケネデイにある種の友情を感じる私にとっては、マリリンとふざけながらもフルシチョフと国を賭けたやり取りをした人のライバルの国には一度は行って見たかった。 実際私は彼の体形はあまり好きではないが、彼の言うことには興味があった。 スターリンの後に本当にこんな人が出るのだろうかと、ロシアがさらに面白かった。 

 

ブリュッセルからアムステルダム、そしてコペンハーゲン。「ああ、これがヨーロッパの古い都市なのだな」と初めて思った町だった。そこで我々は一週間ほどゆっくり滞在したのだった。チボリなどですっかりリラックスした私達はその気分を持続しながら北欧に向かった。

 


コペンハーゲン

 

九月二十七日、ピーターソン夫妻故郷のストックホルムへ向かう。しかし私の目はロシアに向かっていた。

ストックホルムから船でヘルシンキに向かった。この辺まで来ると私もアメリカでの生活から完全に離れてやっと旅行者の気分になり、船内での食事は実に楽しかった。

何しろ目的地までの旅費は払ってあるので、あとは飲んだり食ったりしてそこに着くまでゆっくり楽しめば良いのだから。 明日の心配をしないでその日を楽しむなんて久し振りだった。 

 

 ヘルシンキに着いてすぐに汽車でレニングラードに向かった。 途中ソ連との国境の所で汽車は止まり、検閲の捜査官が乗り込んで来た。彼らは実に徹底的に我々の荷物を調べた。 事前に車室に付いているベッドの下に隠したポルノ雑誌が発見されはしないかと冷や汗を流した。 

 というのはアメリカから旅行に来た学生がそのために捕まり、 刑務所に送られたと聞いていたから。 ともあれ三十分にも及ぶ検査の後無事ソ連に入り、レニングラードに着いた。 私達は言葉も笑顔も善意も一切通じない国に来たのだと悟った。

 駅にはインツーリストの人が迎えに来ていた。 汽車の中で偶然一緒になったアメリカ娘二人とチリからベルギーに留学している人と計五人でヨーロッパホテルという所に案内された。

 巨大なホテルで部屋数は何百在るのか見当も付かず、廊下は真っ直ぐずっと向こうの方まで続いておりまるで細い街路のようだった。廊下には乗ってきた汽車でも見たソ連独特の赤い絨毯が敷いてあった。 階段は大理石だし、ホテル全体が実にどっしりとして石の山のようだった。  

案内人が帰ってしまうと言葉がほとんど通じず、部屋に入るまで二、三十分かかってしまった。 各階のエレベーター近くにその階の係のおばさんが座っており、受付で貰った部屋番号カードを見せると大きな鍵をくれた。これはきっと大きな部屋に違いないと思って入ったら、小さなしかし清潔な部屋だった。