− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


N出発

 

九月の或る日、出発の時が来た。出発前の整理は大変だった。何しろ二十三歳から二十九歳までの七年以上に上るアメリカでの生活でいくら貧乏で物を買わなかったといっても、捨てても誰も拾わないような物で、しかし日本に送らなければならないものが沢山あり、特に私を悩まし続けた教科書などは捨てきれず失礼して着払いで日本に送った。

 計画では車でアメリカ大陸を横断し、 ニュウヨークからヨーロッパに入るつもりでリュックサックとバッグを車に乗せて三人で出発した。 三人とは我々二人に鎌田君を加えたメンバーで、 最初の目的地は宮嶋夫妻の住んでいるイリノイ州ハドソン市、そこのイリノイ大学に彼は留学していた。彼の奥さんは鎌田君の妹なので鎌田君も我々と一緒にそこを訪ねることになったのだった。 私の所持金は三五〇〇ドル、 七年半掛けてやっと貯めた金だった。 この金で我々―私と愛子―は約九ヶ月掛けて日本までの旅行をしたのだった。 計算すると全てを含めて一日十三ドルでやったことになる。

 

 オートバイを壊されてから私は中古の車を買った。一度自由に動けることがどんなに大切かを知ってしまうと、もうそれ無しでは耐えられなかった。 特にロサンジェルスは車無しでは何も出来ない街だった。そのポンコツに近い愛車に乗って三人で勇躍出発したのだった。ポンコツ車といえば私のコメットなどはまだ良い方で、鎌田君の車など彼が何処から拾って来て自分で直し何とか走れるようになったどうしようもないオンボロで、 ドアは紐で止めて走っていたしラジエーターの水が漏るので三十分位走ると車を止めて水を入れないとだめな情けないものだった。

さらに不思議なのは、彼がロサンジェルス市立大学に通っている時分、金が無いからといってそのオンボロ車を大学の駐車場の隅に止め、其処で寝起きし通っていたというのだから私には想像もつかなかった。

 

グランドキャニオンにて

 

その代わりかれは大分勉強したらしい。反対に私は生活の方を大切にして勉強などは二番目にした。それは元々の私の性格に由来するものだろうか、以来常に生活を一番にし勉強は二番だった。お蔭で今も勉強を続けていられる。

もし私がもっと違う意味にラッキーで、金も時間もあって好きなだけ本が読めるとか勉強が出来たとしたら、たぶんとっくの昔に私は勉強しなくなっただろう。思うように好奇心を追求出来なかったことが却ってその持続が出来たのではないかと思う。 本を読む時間が無かった分だけ私は待つことが出来た。

今になって私が知りたいと思っている事を多くのその道の専門家達がそれについての本を出してくれている。昔は「意識とは何か」などを正面から主題にして書かれた本は私の知る限りなかったし、「自由意思なんてそんなものは無いんじゃないの」とはっきり言う人はいなかった。私がある女性雑誌の中でそういっている利根川さんの言葉を見つけた時は本当に待っていて良かったと思った。一九六〇年代はまだそれを本気で研究するには、そのための基礎が無く手の付けようがなかったのだと思う。