パサデナ仏教会で私は日本語学校の教師として毎週日曜日に通っていた。そこでの生徒は日系二世や三世だった。
小学校高学年のクラスで十人ぐらいしか居なかったが、これが結構大変な仕事でいつもいらいらしていた。自分が昔外に出て行ってしまった事を思いだし怒る事も出来ず「静かにしてください」と一日に何十回と言っていたようだった。
しかし先生仲間とは友達になった。もう三十年以上もそこに住んでいる人とか、結婚して日本から来た人、商社に勤めながらそこで教えている人、
私と同じ留学生とかだった。
校長は西本願寺から派遣された僧侶で結婚する時もいろいろ助けてもらった。
毛利先生といってあまり坊さんらしくなかったのが面白かった。
貫禄を付けようとか、
偉そうに見せようという風がなく、いつも「まあぼちぼち行きましょう」と私が何かを上手く出来ないで困っている時でも、そう言ってリラックスさせてくれた。本当に今思うと私の周りには親切な人が沢山いた。
ハリウッドで住んでいた所はメルローズXフェアファックスで、近くにユダヤ人の小学校があった。私達のアパートの一階には男が二人で住んでいたし、すぐ隣には鉄の彫刻家がいていつも上半身裸で何かを創っていた。
パサデナからそこに移る事によって、妻の愛子は東京でやっていたファッション関係の仕事に就くことが出来た。私は知らないが、わりあい有名なデザイナーの下で働く事になったのだった。しかし其処での仕事は思いのほか厳しく、東京でやっていたようには行かずにすっかりくたびれたようだった。
幸いな事にその頃友達になった和泉夫人から日本の商社でのアルバイトを紹介され、そこに落ち着いた。その友達はすでに日本で結婚して、
二人でここロサンジェルスにやって来た芸術家のカップルだった。 齢が二人とも私達と同じ位だったのでよく四人で出かけた。
和泉氏は彫刻家で、
その仲間達が外国にでて勉強しているのに刺激されて二人でここに来たらしく私達と同じようにアルバイトをしながら生活していた。
卒業式にて
とうとうアメリカ最後の夏がやって来た。
もう一九七〇年に入っていた。六月の卒業式で一応終ったが、一科目だけ単位が足りなく夏のセッションに出てそれを取らねば為らなかったので出発は九月に決めた。
資金が足りないので、ある友人のリーダーシップのもとペンキ屋を始めた。鎌田君という私より年下だが英語も上手く行動力のあるその人が仕事を取ってきて、我々和泉さんを含めた男三人で色々な家に行ってペンキを塗っていた。
アメリカの大きな三階建ての家でのペンキ塗りは命がけだった。
まず三階の屋根に登るのも結構大変で、長い梯子をチャーターしてそれで登るのだが、高さが十メートル位あるので上の方まで登ると地面が非常に遠くに見え、梯子の幅も五十センチ位なので、梯子ごと横滑りして落ちそうで怖かった。
和泉さんなどは上まで登って来られなかった。屋根に上ってからも傾斜があるので油断すると滑って落ちそうだった。
さらに大変だったのは樋の剥げた古いペンキを剃り落として新しいペンキを塗るのだが、屋根の上からそれをやるのでどうしても逆さで腹ばいになってやらねばならなかった。身体にロープを縛り、それを暖炉用の煙突に結びそれで身体を支えながら塗った。ともかくそれは時間給でなくビジネスだったし、一寸大変な仕事の分だけ金にはなった。
世界一周旅行という意識の下で旅行の計画は立てたが、
計画とは程遠かった。ただ日本の大学時代に読んだ小田実の『何でも見てやろう』とか出発前に読んだ『ヨーロッパ一日五ドル旅行』だけがたよりの何とも情けない計画だったが、私としてははっきりとした計画は立てたくなかった。ただまずヨーロッパまで飛んでその周りを見物し、ユーラシア大陸を横切って日本に帰ろうと思っただけだった。何故か最初から南米とアフリカ大陸のナイジェリアの方は計画から外れていた。漠然とこれは第一回目の実験だと思っていたのだろう。無銭旅行は不可能だと思ってから旅行のための資金の重要さを考えていたのだろう。
とにかくどの本で読んだかは覚えていないが、冒険で大切なのは無事に帰る事だと、そうすればその時出来なくともまたチャレンジ出来るからと。
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