次の大学をいろいろ探していたが、奨学資金を貰えるほど成績も良くなく、経済的にも生活するのがやっとという状態の中では選択枝は二、三しか無かった。
だがその中でも最高の所であるロングビーチ市のカリフォルニア州立大学に入れた。
仕事はパサデナ市でガーデナー(庭師)として週三日働き、学校へはやはり三日通うことにして何とか学生ビザのまま、今までと余り違わない生活を続けることが出来た。
しかし学業の方は今までのジュニアカレッジでの教養課程と違って周りの学生も先生も皆本気で、
留学生だからと甘くしてはくれなかった。
英語のハンディのないアメリカ人の学生にとっても、
予習をやらずに来ると追いついて行けないほど皆良くやっていた。実際、実験心理学を取ったときなど 全く私はクラスではお荷物扱いだった。
最初の二、三歩の遅れで何も解らなくなり、後は何をやっているのか目的さえも解らなくなり、
とうとうF(落第点)を取ってしまった。その頃私はあまり気がついていなかったが、学問の世界では生物学が非常な勢いで進みつつあり、そのコースも新しい考え方や実験の方法が入って来て、チャレンジ精神旺盛な博士課程で研究している学生がそのコースのインストラクターだった。
彼は一生懸命勉強する学生だけを相手にしていた。
このアメリカの大学で本格的に勉強し仲間と競り合って、良い成績を取り大学院に進むなんて私には無理だと知った。そしたら少し気が楽になった。自分でも知らぬうちに周りの大学院を目指している学生たちに影響され、私もいずれ大学で哲学や人類学を教える立場に立ちたいと思ったのだった。
もう一度最初の目的である世界一周するという夢に立ち戻り、そのための具体的な準備を始めた。
さらなる英語の勉強と資金を貯める事、そのためにはまだ二、三年必要だから 何とか卒業して、それを手土産に旅に出発しようと。二年などあっという間に過ぎ何とかぎりぎりの成績で卒業できた。
浜辺での筆者、友人と
ロングビーチに通っている頃は仕事との中間点であるハリウッドに住んでいた。三日間パサデナでガーデナーをし、三日間は学校にこもった。黒人の市民権運動が盛んな時で校内でも色々な種類の集会が開かれていた。
今まで何処に居たのかと思うほどの沢山の黒人学生が校内を闊歩し始めていた。
UCLAから黒人の美人教授が講演に来た時などは大変な人だった。私も日本人なのでそこではマイノリテイの一員であるのだから当然黒人サイドに立つ筈なのに、
何故か思いは白人サイドだった。「I
have a dream」
というマルチン・ルター・キング師は魅力的だったが何か他人事だった。もしかしたら前に一度黒人に意地悪をされているのが尾を引いているのかも知れない。
私の大切にしていたオートバイのガソリンタンクの中に砂糖を入れられ、モーターを駄目にされたのだった。
その頃私はパサデナでの社会学の授業でアサイメントとして、ボランテア活動の実践としてそのクラスから紹介された精神的に異常のある老人の施設に毎週通っていた。
そこでの主な仕事は庭や廊下の清掃と使用されたシーツの回収だった。
とにかく驚いたのはそこいら中うんこだらけで、ベッドに鎖で繋がれている老人もじっと動かずに寝ている人も一様にそのような環境の中にいた。そこで働いている人達の多くは有色人種のようだった。その人達は、好きで働いているのではなく他に仕事がないので生活のためにそこにいたのだと思う。
大学に通っている有色人種の私が勉強のために、ましてやボランテアとして無給で仕事しているなんて許せなかったに違いないとこれを書いている今では思えるが、その時は何ヶ月もかけてやっと買えた中古のオートバイは私の行動の源だった。
この広いロサンジェルスを車なしで行動する事はほとんど不可能で、何処かに行きたい時はいつも友達に頼んで連れて行って貰ったのである意味自由が無かった。私の自由を奪ったと思われる若い黒人達は、動かないオートバイを引っ張って途方に暮れている私を赤い口を見せて笑っていた。
しかしそこにも私を助けてくれる人がいた。退役軍人らしく、そこには珍しい白人の老人で私が運んで来たうんこだらけのシーツを黙々と洗濯機で洗っていた。
ガソリンタンクに砂糖を入れられたのではないかと教えてくれたのも彼だった。暇なとき彼はいろいろなことを話してくれた。彼はその黒人達を怒ってはいなかった、そして私を慰めてくれた。
結局ピーターソン氏に迎えに来てもらい其処での仕事はそれで終りになった。
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