− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


J結婚

 

ピーターソン夫妻の下で生活が落着くと、何故か一人ぼっちが急に疲れるようになり、ずっと手紙のやりとりをしていた日本にいる女友達にアメリカに来ないかと誘った。

それでは行ってみましょうか、という事になったが、一九六七年当時、未婚の女性一人がただの観光ビザでアメリカに行くのは殆ど許可されなかった。何ヶ月もかかっても埒があかずにほぼ諦めかけた中、彼女はアメリカ大使館の女性の責任者に「実はアメリカで勉強しているフィアンセの所に行って結婚するつもりだ」と言ったらその女性は感激して、「何故それを最初に言わなかったの」と直ぐにビザをくれたらしい。いかにもアメリカ風だなあ、と思った。とにかく万万歳で彼女はロサンジェルスに来た。それ以来、武蔵さんには申し訳無いが結構楽しい武者修業となった。

 彼女もYWCAで勉強した後、直ぐにパサデナ市大に入学した。結婚式はその道の先輩である宮嶋氏のリードと、またピーターソン夫妻の協力の下、当時私が毎週土曜日に日本語を教えに行っていたパサデナ仏教会の教会で行われた。出席出来ない父親の代りをピーターソン氏に頼んで無事花嫁をエスコートしてもらい、日本の仲人役にはベストフレンド役として宮嶋氏に頼んだ。披露宴はピーターソン邸で夫人が用意してくれた。随分沢山の留学生友達が集まってくれ、その一人一人から私達の欲しい物をプレゼントしてもらった。結婚式で私が出した費用は教会に寄付した三十五ドルだけだった。花嫁衣裳もファッションデザイナーを志していた彼女が、前以て何人かの友達が共同してプレゼントしてもらったミシンを使って全て造ってしまった。こうして今度は二人での学校生活が始まった。

 

 

結婚して私が一番良かったと思ったのは、人間の中の生物としての要素とその重さが解り始めたことと、自分以外の人間との関わりからも自分だけでは発見できない何かおもしろい面が自分の中に見えたことだった。それに、自分の言葉で表現したら百パーセント伝わると思っている人がいつも近くにいることによって、私の言葉に対するフラストレーションは消えた。

一番良い例は買い物だった。一人の時はスーパーでの買い物は一種の仕事で無駄なくなるべく速く切り上げようとしていたが、二人で買い物に行くと、それはデイトであり映画を観に行ったと同じ位の楽しい時間だった。この武蔵の弟子である私がスーパーでおしゃべりをしながら「この大根はおもしろい形をしているね」とか言っているのって自分でも想像出来なかった。人間って割合簡単に変わってしまう事を知った。後年美術商になりピカソを扱うようになった時、彼の青の時代からバラ色の時代へ移行した経過が良く解った。   

さて、苦学生のつもりが普通のひとと同じような、小さくともしっかりした幸せを手にしてしまうと、困った事が起こった。逃げ場が無くなってしまったのだ。

金もなく言葉も出来ず孤独っぽい状態の中で生きていた時は、まだ何も出来なくとも仕方が無いと結果を先送り出来たのだが、普通の人と同じくらいになると現実的な目的とか結果が目に見える所に無いと何か自分がずるいように感じてしまうのだった。

そのため私は今までの学校に通うのは唯英語の勉強の為だと思う事からはっきりとした目的、つまりアメリカの大学を正式に卒業しようとする事に切り替えた。そして卒業したら世界一周の旅行に出発しようと。