誰の世話にもならず生きようと思っていたのだが、言葉が出来ない事と生活費が常に一週間分ぐらいしか無い不安が私を禅宗寺という何か縁の有りそうな、最後の逃げ場になりそうな場所に追いやったと思うのだが、幸いな事に一度もその寺を訪ねる事がなかった。
むしろ不思議な事に私がよく訪れたのは同じく日本人町の外れにある東本願寺だった。そこは宮嶋さんの知り合いで紹介され、声なんか良くないのにそこのコーラスグループに皆で入りテノールなどを受け持っていた。私は禅宗の出なので他力本願の宗教を受け入れていなかったが、そこには宗教とは関係ない感じで出入りしていた。そこの娘さんたちと若い戒教師に惹かれたのだろう、それにその寺の夫妻の柔らかな包容力に。
基本的に宗教とは他力本願であるはずなので、それを嫌う私はさっさと宗教から離れれば良かったのにそれが出来なかった。昔、宮本武蔵に夢中になっていた時から少し経った頃、いつも思い出す文章があった。それは彼が一乗下がり松での吉岡一門との決闘に向かう途中、偶然見つけた小さな神社で一条の武運を祈ろうと手を合わせようとした時、突然それを止めた事だった。何ものにも頼まずに自分だけで行こうと。以来私は神社に行っても上手く手を合わせられない。時には失礼だと思い自分以外の人のために祈り手を合わせる事もあるが、自分のためにはやらないようにしている。
小説、哲学の本、科学の本、どの本を大切にするかは私の自由だが、どうも大切にする本は最初から決まっているようだ。私が選ぶのは良く考えた結果ではなく直感に拠っている様な感じがする。良く考えてから選んだものは五分後には他のものに変えるかもしれないが、考えずに選んだものはセカンド・チョイスがなくそのまま先に進むようだ。自分のために神に祈るのを止めた武蔵に惹かれたのは、元々私が持っていた何かなのかもしれない。
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