学校の紹介で家を見つけた。学校からバイクで五、六分のアルタデナ市にあるピーターソンと言う人の家だった。一エーカーの大きな家で、私の仕事は三十分位の皿洗いと庭仕事だった。小さな個室とバス、トイレも与えられた。
ピーターソン夫妻は私の両親とほぼ同年齢でスエーデン系二世だった。自分たちも仕事をしながら大学を出たので私を応援してくれた。
氏は昔カリフォルニア工科大学の先生をしていたらしいが、その時は石油発掘会社の副社長をしていた。地質学の博士号を持っており、世界中石油を求めて旅行したという彼は、ビジネスマンというよりは学者という感じだった。夫人は大学では生物学を学んだ後、美術を専攻した。彼女の創った彫刻などが庭に置いてあった。
彼女は日本文化に非常に興味を持っており、一緒に庭の仕事をしている内にそこに日本庭園を造ろうという事になってしまった。池を造って鯉を放し、小さな山に松を植えたり、門を作ってそこに「ピ―ター園」と日本語で書いた板を打ち付けたりして、何とかジャパニーズ・ガーデンらしきものが出来あがった。夫妻とくに夫人は大喜びで何回もオープニングをやり、ゲストに「よしのぶ、よしのぶ」と紹介した。私もつい「俺って庭造りの才能があるのかも知れない」などと思ってしまった。
アメリカ人にとって「ぶ」の発音は難しいらしく、私の呼び名をビルとかテッドとかのように短くして「よし」と呼びたがっていたが、日本で呼び名を短くするのはあまり流行ってなく、むしろ犬の名を呼ぶような感じで歓迎されないと断りちゃんと「よしのぶ」と呼んでくれと言った。最初は皆、私の名前をうまく発音出来ず「ヨシ・ノバ」と言っていたがしだいに「ヨシ・ノブ」と呼べるようになったが、結局最後までヨシノブと一気に呼べなかった。私は勝手に日本を出て来たのだが、日本を代表しているのだとも思っていたので小さい事にも拘った。
当時のパサデナ市大の留学生たちは、政治環境の影響で結構優遇された。いろいろな所に引っ張り出され、日本文化の紹介などをした。私も得意の柔道などを披露したり、やはり空手をやっていた人と組んで見せ場を作ったりした。
ピーターソン夫妻、叔母と
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