私は寺に生まれ育った関係で中学、高校と月謝無料で通学し、世界一周とかして三十歳までに帰り寺を継いで哲学を勉強したいと思っていたので、一種のライバルであるキリスト教にはずっと関心を持っていた。
それに、大学時代に影響された本はほとんどキリスト教の世界で育った人によって書かれたものだった。『レ・ミゼラブル』『ジャン・クリストフ』『チボー家の人々』『マルテの手記』『ツァラツストラはかく語りき』などで、反対に日本人作家の川端康成とか谷崎潤一郎などは読んでもよく解らなかった。
彼らのなかには対称とすべき絶対的な愛とか強さとか正義を持っている神のようなものがなく、青年の私にはどのような行動を取ったら良いのか解らなかった。例外は武蔵と破戒だった。私には戦うべき、または反抗すべき強い相手が必要だったようだ。さらにはっきりした項目、つまり愛とは、正義とは、強さとは何かと言うような。
アメリカで生活し始めたこの頃、
私にとってラッキーだったのはアルバイトと学校にほとんどの時間を取られ、日本語の本など読む時間など無かったことだったかもしれない。英語で書かれたそのような本を読む力も無かったし。むしろ夜中の皿洗いの仕事や、カリフォルニアの熱い太陽の下での労働のなかで何かを感じようとした。それが私の武者修業のような気がして本が読めなくとも焦らなかった。
こんなこともあった。アメリカに着いて二、三ヶ月してから私は日本で何回もやってそれなりに成功していた無銭旅行を実験してみた。
船内で知り合った里帰りのサクラメントで農場をやっている老人を訪ねたのだった。彼の家族はそれなりに私を迎えてくれたが、
英語がほとんど通じない中やっとサクラメントのその家に着いた私は、金も無いこともありびびって一人で外にも出ず何もせずにその家にいた。とうとうその老人の息子にリノにでも行って遊んできなさいと小使いを貰って外に出された。
リノに行ってスロットマシーンをしてやっとロサンジェルスの叔母の家に帰ったが、こりゃ駄目だと思った。
私が日本でやった無銭旅行は
「貧乏旅行をして世の中の勉強をしている感心な学生さん」という母性愛に支えられたものに過ぎなかったのだ。
ここでは言葉も満足に喋れず金もない私なんか、いくらにこにこして愛想を振り撒いても、ただの厄介者だった。
地元紙に報じられたパサデナ市大祭、写真中央が筆者
私が英語学校に通っている頃住んでいた部屋は、日本人町内の禅宗寺という寺の横で、持ち主はその寺だった。二階建て全六室の凄く汚い小さなアパートで、隣にはせむしのメキシカンの乞食が住んでいた。共同のトイレとシャワー室も汚かったが、
水とお湯はきれいで豊富だったのであまり気にならなかった。
しばらくして隣の部屋に英語学校の友達が越して来た。彼も中央大学の法科を出てアメリカにやって来たのだが、私と同じ頃ポモナという市にある大学を無事卒業し、
日本に帰ってサラリーマンをやった後大阪の方で市会議員をやっていたが、最近病気で死んでしまった。
彼も夜中に一緒にボーリングをやった仲間だったので何か淋しい。
英語のクラスは七段階に分かれており六級か七級を終ると大学に入れる位の英語力が付いた事になっていた。私は三年近くかかってやっとパサデナ市、ロサンジェルスから車で三十分の所に在るジュニアカレッジに入った。
パサデナ・ジュニアカレッジはその辺では有名な学校でローズパレードとローズボールのクイーンはいつもそこから選ばれていた。特にその時期は外国人留学生の招待に力を入れていた。
月謝も安く毎日四時間位働けば生活と学業が両立出来た。 |