− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


Fアメリカ

 

叔母の家でしばらく休んだ後、私はまた元気を取り戻した。また叔母の紹介により、近くで柔道を教えている人に会いその道場を手伝う事によって生活が出来ないものかと思ったが、その先生自身もそれで生活費を稼ぐ事が出来ずに他の仕事をしていた。結局その先生の友達が土建屋をやっていたので、そこで働かしてもらうことにした。そこはそれなりに面白かった。一緒に働いている人達はアル中の黒人だったり、刑務所から出て来たばかりのメキシカンだったりしたが 彼らは一様に私に親切だった。ときどきアル中の黒人にビールを買う金を貸してくれと言われて貸していたが、ボスが気がつき、「あいつに貸してはいけない。金をあいつに貸すのはあげるのと同じ事だ」と言われ、ボスがその分返してくれた。メキシカンの方は小さいが筋肉隆々とした若い男で、恋敵を刺して刑務所に入ったらしかった。その男にはテキーラの飲み方を教わった。

観光ビザから学生ビザに変えることによって、毎日学校に行かなければならなくなり、土建屋を止め、今度は日本人町の近くにある煎餅工場に仕事を見つけた。十人位の日本人や日系二世がそこで働いていた。私はそこで毎日4時間フォーチュン・クッキー(註:中におみくじの入っている菓子)をつくっていた。本当に時間を売っているような感じだったが、それなりに落ち着いた時間だった。

学生ビザを取ってからは毎日四時間以上は授業に出なければならない事になっていたので、無駄な時間はほとんどなかった。煎餅焼の仕事もそれなりに疲れるので、授業中眠らないように仕事の後必ず十五分から二十分、ベッドの上で足を壁に沿って上げて寝た。この体勢では十五分以上眠る事は無理なので、短時間で疲れを取るには最高の方法だった。

ケンブリア・アダルトスクールにはいろいろな国からの留学生や移民して来た人達で一杯だった。多かったのはメキシコ人、日本人、イラン人。その他チリ、コロンビア、プエルトリコ、韓国、香港、中央アメリカの人達と、それはそれは国際色豊かだった。とくに我々日本から来た男達にとってはメキシコや中南米からの娘達は本当に魅力に満ちていた。貧乏でその日暮らしだったが青春のど真ん中だった。もし私が武蔵のように武者修業のつもりでなかったら、またもう少し金と時間と英語力が在ったら、私は少し違う人生を歩んでいたでしょう、それほど娘達は美しかった。コロンビアからきたヨランダという目とおっぱいの大きな娘がいて私はよろよろした。日本語をどうして覚えたのか「キスシテクダサイ」などと言うから。


  ロスでの柔道大会にて

 

一九六三年当時のアメリカは、昇り龍の如く若き大統領ケネディの下で元気に溢れていた。その自信が他の経済的、文化的に劣っていると思われる国から来た人々に対して優しく、その英語学校では私達は一銭も払わずに勉強出来た。時にはクラスの皆でピクニックに行った。近くのグリフス・パークに薔薇を見に行った時、帰ってからその時の感想を作文にするよう言われた。たまたまその公園で薔薇などに興味のない私は何か門のような所に刻まれた言葉を見つけた。英語の勉強だと思って読んでみた。私は知らなかったがそれはケネディの有名な言葉で「国家に何かをしてもらうのではなく、国家の為に貴方が何かをしなさい」と。これも私にとっては 『自由からの逃走』と同じく逆転の発想で印象に残り、それを作文にした。私のクラスの先生は五十歳位の女の人で大のケネディファンだったらしく、皆の前でその作文を発表した。

しばらくしてその年の十一月にケネデイが暗殺された時、その女教師は泣きながら授業を中断し、すぐに家に帰ってニュースを見なさいと我々を帰した。それ以来、私は死んでしまったケネディをより身近に感じるようになった。

 その学校で知り合った同じような境遇の人達、つまり日本からの若い留学生たちと次第に行動を共にするようになり、相変わらず常に金欠病だったがそれなりに皆で遊びに出るようになった。特に仲間の内の何人かがバイブルスクールに入っておりそれに誘われてその集いに出るようになった。リーダーは普通のアメリカ人の宣教師で、教会ではなくその人の家でやっていた。それは私にとって始めての不思議な経験だった。いまでこそ日本でもボランテア活動が一般に行われているが、一九六〇年代の日本人にとっては自分とか自分の家族のためには努力するが、他人のために無償でなにかするなんて、まだ一般的でなかった。確かに一種の仲間同士とか近所間での助け合いというものはあったが、それは一種の保険であり講のような性質のものだった。バイブルスクールに来ていたその宣教師の仲間はあきらかに何かが違っていた。それはたぶんキリスト教徒の持っている典型的な行動表現で、できるだけ無償を表現するのが美しいとか価値があるとかと信じていたのだと思う。

彼らは私達貧しい留学生を手分けして旅行とかホームパーティーに誘ってくれた。私はそれなりに結構もうクリスチャンになった人達と付き合っていたが、最終的にその宣教師に「神、あるいはキリストを信じれば天国に行けるよ」と言われると何か白けてしまい、おいおい俺だって大学を出ているんだよ、とあまり関係のないことを思った。それに天国に行ったら退屈するでしょう、試験もないし、喧嘩も空腹もないんじゃあ何するの、と。それに幾らお題目とはいえ、人間は神様が作ったとか、世界を創造したのは神だというだけで、其の事について勉強しないのは何かおかしいと思った。神を信じるということは勉強を放棄することなのか、などとぶつぶつ言っていた。私がその人達にはっきりとそのような事を言わなかった、または言えなかったのは、その宣教師の日本人ヘルパーたちは皆しっかりしており、優しく親切だったし、貧乏で言葉もあまりできない、決して優秀とは言えない私達はそれに甘えてしまった。黙ってさえいれば、それなりに楽しかった。