一九六三年当時のアメリカは、昇り龍の如く若き大統領ケネディの下で元気に溢れていた。その自信が他の経済的、文化的に劣っていると思われる国から来た人々に対して優しく、その英語学校では私達は一銭も払わずに勉強出来た。時にはクラスの皆でピクニックに行った。近くのグリフス・パークに薔薇を見に行った時、帰ってからその時の感想を作文にするよう言われた。たまたまその公園で薔薇などに興味のない私は何か門のような所に刻まれた言葉を見つけた。英語の勉強だと思って読んでみた。私は知らなかったがそれはケネディの有名な言葉で「国家に何かをしてもらうのではなく、国家の為に貴方が何かをしなさい」と。これも私にとっては
『自由からの逃走』と同じく逆転の発想で印象に残り、それを作文にした。私のクラスの先生は五十歳位の女の人で大のケネディファンだったらしく、皆の前でその作文を発表した。
しばらくしてその年の十一月にケネデイが暗殺された時、その女教師は泣きながら授業を中断し、すぐに家に帰ってニュースを見なさいと我々を帰した。それ以来、私は死んでしまったケネディをより身近に感じるようになった。
その学校で知り合った同じような境遇の人達、つまり日本からの若い留学生たちと次第に行動を共にするようになり、相変わらず常に金欠病だったがそれなりに皆で遊びに出るようになった。特に仲間の内の何人かがバイブルスクールに入っておりそれに誘われてその集いに出るようになった。リーダーは普通のアメリカ人の宣教師で、教会ではなくその人の家でやっていた。それは私にとって始めての不思議な経験だった。いまでこそ日本でもボランテア活動が一般に行われているが、一九六〇年代の日本人にとっては自分とか自分の家族のためには努力するが、他人のために無償でなにかするなんて、まだ一般的でなかった。確かに一種の仲間同士とか近所間での助け合いというものはあったが、それは一種の保険であり講のような性質のものだった。バイブルスクールに来ていたその宣教師の仲間はあきらかに何かが違っていた。それはたぶんキリスト教徒の持っている典型的な行動表現で、できるだけ無償を表現するのが美しいとか価値があるとかと信じていたのだと思う。
彼らは私達貧しい留学生を手分けして旅行とかホームパーティーに誘ってくれた。私はそれなりに結構もうクリスチャンになった人達と付き合っていたが、最終的にその宣教師に「神、あるいはキリストを信じれば天国に行けるよ」と言われると何か白けてしまい、おいおい俺だって大学を出ているんだよ、とあまり関係のないことを思った。それに天国に行ったら退屈するでしょう、試験もないし、喧嘩も空腹もないんじゃあ何するの、と。それに幾らお題目とはいえ、人間は神様が作ったとか、世界を創造したのは神だというだけで、其の事について勉強しないのは何かおかしいと思った。神を信じるということは勉強を放棄することなのか、などとぶつぶつ言っていた。私がその人達にはっきりとそのような事を言わなかった、または言えなかったのは、その宣教師の日本人ヘルパーたちは皆しっかりしており、優しく親切だったし、貧乏で言葉もあまりできない、決して優秀とは言えない私達はそれに甘えてしまった。黙ってさえいれば、それなりに楽しかった。
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