− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


E自由からの逃走

 

卒論をまとめている頃、また偶然に大切な本に出会った。今度は小説ではなく社会心理学の本だった。何故この本を見つけたかというと、それはタイトルに惹かれたからだった。『自由からの逃走』という、最初はふざけた題だと思って立ち読みしていたら、エーリッヒ・フロムなどという人は聞いたこともなかったが、これは絶対買わなければと思った。自由に憧れ、その為にはどのような努力も厭わないという考え方は、誰にとっても真理であり、それ以外の考え方なんてある筈がなかった。それをフロムは私の方法、つまり原因と結果から解き起こし、自由を嫌う事もあるのだといった。常識だと思っていることも、今一度きちんと考えるのが学問なのかと思った。

私が『出発としての卒論』を書いた本当の理由は、確かに一つには自分の生まれ育った所から、未知の世界に出る事だったが、もっと大切な事として新しい自分を生きようとする事にあった。あの幼年時代の劣等感から脱出し、強い人間に成ろうとして沢山の良い本を読んだ。私の持って生まれたものなのかも知れないが、強くなろうとする人間にとって、キリスト教世界にいる文学者の言っている事の方が、日本人のそれよりもより素直に私の中に入って来た。世のため人のために生きる事が最終目的のように思え、そうなる為に、シバイツアーのような生き方が理想的に思えた。武蔵とシバイツアー、不思議な組合せだが、私にとっては自然な流れだった。考えてみると確かに二人とも何かを求めて戦っているようだが、強くなる事しか考えてない私に、世のため人のために自信を持って何かすることが出来るだろうかと疑った。それをする為には全てに対して好奇心いっぱいの今あるエネルギーをある程度放出した後でなければ不可能だろうと。それではと思った、シバイツアーのように私も三十歳まで自分の好奇心のためだけに生きようと。そう、私の好奇心とか興味の一番中心にあったのは「いつ人間は人間に成ったのだろう」だった、それを世界一周しながら考えてみようと。


一九六三年四月の終り、とうとうアメリカに着いた。本当に新しい生活が始まった。最初に住んだ所は私の保証人になってくれた叔母の家は、カリフォルニア州ロサンジェルス市の、家の前に芝生のある典型的な郊外の家だった。二、三ヶ月は家の周りをまぐれないように散歩に行ったり、叔母に連れられてスーパーに買い物に行ったりしてアメリカでの生活に慣らして行った。しかし始めて床屋に行った時などは 「カット・ヘアー、カットプリーズ」と言ったら、あっと言う間に坊主頭にされてしまった。「オーケー?」と終ってから訊かれたので、しまった!と思ったがもう遅い。「オーケー、サンキュー」といって笑って店を出て来た。これも貴重な体験の一つだとやせ我慢したが、カリフォルニアの太陽は坊主頭には熱かった。

もうそろそろ家を出て自分の力で生活しなければいけませよ、アメリカの若者達も皆やっているのだから、と。その頃叔母の家には毎日『ロサンゼルス・タイムス』の他に『羅府新報』という日本語の新聞が来ており、それに求人広告が沢山載っていた。スクールボーイという欄に、毎日二、三時間働けば、住む部屋と食事と少しのお金がもらえる仕事があり学生にとってはかなり良いものだった。私は公立の外国人用の英語学校に通い始めていたがまだ全然話せないので叔母に電話に出てもらいその仕事を取った。無論叔母が保証したので取れたのだが。ユダヤ人の家族の家で夏の間留守にするので、その間留守番をたのむということだった。私はその大きな家に一人ぼっちで留守番していた。お金はほとんど持っておらず、その家の冷蔵庫は空っぽだった。その家族が何時帰って来るのかも知らず、家の掃除をしながら待っていた。食べる物もあまりないのと留守番だから外に出てはいけないと勝手に思っていて、とうとう風邪を引いてしまい、二、三日パンと西瓜だけで暮らしていた。結果として私がアメリカの生活に余りにも疎いためと、それ以上に英語で言われた事が半分ぐらいしか理解出来なかったので、「ユーアーファイアード」と言われ、叔母に電話されたあと家に帰された。何も解らないまま、「ファイアード?火がどうしたのだろう?」と首をひねりながら叔母の家に帰った。叔母に説明されてやっと自分が首になった事、とその理由が解った。今思うと首になるのも当然だと思うが、その当時はそんな事で何故? と思っていた。 誰も居ないその家で一生懸命掃除機をかけていて、食べ物も無い状態で疲れ切ってしまい、たまたまそこに在ったベッドにちょっと横になって休んだ。 ベッドにはベットカバーが掛けられていたし 私も服を着たまま一寸横になっただけなので そんな事は直ぐに忘れていた、むしろ体調が悪い中でちゃんと仕事をしたと思っていた程だった。 が 帰ってきた夫人が私を呼び、「あなたは娘の部屋のベットで寝ていたでしょう」と言った。私は寝てはいない、と言ったが、まだ「ちょっと横になった」と言うことが出来ず、ただ「私は寝てなんかいないよ」と言うのみだった。夫人は嘘をつく人だ、危険だ、と思って首にしたのだろう、ましてや娘のベットだから当然かもしれない。

 

 私は二十歳ぐらいから自分を観察する事が面白くて、ずっと日記を付けて来た。だから今まで書いて来たことも、もっと正確に書こうと思えば、それらの日記を読み返して書くことも出来た。しかしそれは止めた。何故か、それはあの卒論を書いた時の、あの日記を読み返し分析し、自分の心の動きと行動を自分に納得させられる説明をすることの大変だった事が思い出され、もう今更いやだと思った。あの時は半年間時間が止まってしまった。 それにこうも思った。思い出せないような事は自分にとってたいして価値の無かった事だったのだろう、と。

(続く)