− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


D夏の晩の出来事

 私の父は家から歩いて二時間位の村の寺に生まれ、師範学校―今の横浜国立大学を出て箱根の方で教師をしていたが、縁あって母と一緒になった。

 母はその小田原の長泉寺という寺の三山が鎌倉の建長寺だった。おとなしい父と美しく男勝りの母に私達三兄弟は育てられた。そう母は伊達に男勝りではなかった。

 

戦後すぐ、まだ世の中が殺伐としていて、戦地から帰ったばかりの人達―今でいうホームレス―が沢山いて、よく食物を求めて寺にやって来た。

ある夏の晩、家に強盗が入った。私達家族五人は蚊帳のなかで寝ていると、突然包丁を持った男が現れ、金を出せ、と言った。父が蚊帳から出ようとすると、男はそのままにしていろ、女が出ろ、と言ったので、母が蚊帳から出た。

金を取りに行く振りをしながら、隙をみて男の持っている包丁を奪いに行き、包丁の刃を素手で掴み揉み合っていた。とうとう男から包丁を取り上げ、そのまま切りつけた。男は逃げた。男は線路伝いに逃げて行った。

私達は線路に出て「火事だ、火事だ」と叫んだ。たぶんその時父が言ったのだと思うが、「もし強盗だ、と叫んだら、近所の人は皆怖がって出て来てくれないから火事だと言いなさい」と。

 

あとで警察が来て母になぜそんな無謀な事をするのだと、一つ間違えばとんだことになっていたと。母は言った、私は男の包丁を持っている手が震えているのが見えた。そして包丁を見てすぐ解った、これは台所に置いてある家の刺身包丁だと、そしてそれは柄がぐらぐらしていて直ぐ刃が抜ける物なのだと、そしてさらに言った、包丁さえ取り上げてしまえば子供達は安全なのだと。

母はそれを僅か何秒かの間に観察し、考え、決断し、実行した。お蔭で母の小指は 深く切れ、元に戻るまで随分時間がかかった。

 

私はどちらかと言うと物覚えの悪い方で、人の名前などもすぐ忘れてしまう方なのに、こんな昔の事なぜこんなにはっきり覚えているのだろう。誰に聞いたのでもなく、その時母に聞いただけなのに。たぶん自分で思っている以上にショッキングな出来事だったのだろう。

 

これは私の考え方というよりも癖といった方がいいかも知れないほど、私は因果関係を辿る事で何かを理解した気になっていた。

全ての事柄の連続性、物理で言う慣性とかエネルギー不滅の法則とかと一緒にして、世の中や自分の事を理解しようとした。人間とは意思を持った特異な生物の筈と思っていても、意思というものを客観的な物理学の中で考えると、意思イコール複雑な脳の中での反応となってしまい、考え、決断そして実行といった所で所詮成るように成っているだけの事かも知れないと、何か淋しくなった。

 

自分に興味を持ってから、それを知ろうとして、結局人類と言うものは何かという考えに行き着き、ダーウィン、フロイトとかユングの本を読み始め、さらに生命とは何かにまで進み、読まなければならない本が急激に増して来た。

とにかく私の考え方は、何故こうなったのか、こうなる原因は何かという簡単だが、多分基本的な考え方だった。今でも時々思い出すが、ケンブリア・アダルトスクールと言う市営の外国人のための英語学校で提出した作文のタイトルが「From a stone to a humanbeing」で、連続性とか時とかを主題にしたものだった。

今でも基本的な所は変わっていない、つまり二十代の前半で考えていたことが四十年も続いている事になる。

 

アメリカにいる間語学のハンディで肉体労働でしか生活費を稼ぐ事が出来なかったが、それは決して不幸に感じた事はなかった。苦労は自分を高める為の必要不可欠なものだと感じていたのかも知れない。