− ギャラリーかわまつ誕生秘話 −


C船中にて

  最初の目的地ロサンジェルスに着くまで三週間あったので、船には縄跳び用のロープを持ちこんでいた。何時ものようなトレーニングをする事と同時にもし海が荒れたら、波に揺られる前に自分から縄跳びをして身体を動かしたら、たぶん船酔いから逃れられるだろうと。これは成功した。揺れている間ずっと縄跳びをしていた訳ではないが、むしろ疲れて酔う暇がなかったのだろう。

 まったくおめでたい話で日本での貧乏旅行の経験を生かせば二年くらいで、金が無くとも世界一周できるかなと思っていた。ロサンジェルスで英語を勉強しながら働いて、次は南米の方に行こうか等と、のんきな坊ちゃんだった。
 
 さくら丸の中にも南米に向かう人達が沢山いたようだった。その人達は現実を知っているので私のようの気楽な人とは話が合わなかった。
 船中での食事はふたつに別れていて、一等と二等の客は大きなレストランのような食堂できちんとした服装で正式に食べていたが、三等の人達はどこか他の所で食事していたようだった。私はスポンサーである叔母の薦めに従い二等船室に居たので、おかげで食事のマナーを学ぶ事が出来たし、テーブルで色々な人たちと一緒になり楽しい船旅だった。もしこれが少しばかりの船賃を倹約して、叔母の薦めを無視して三等船室の切符をとっていたら随分と違う船旅になっていたことだっただろう。
 それよりも大変だったのは英語だった。外国に行くのだから英語が必要なのはずっと前から知っていたのだが、当に基本の基なのにそれが全然駄目で、偉そうな事を言っても全く何かが解っていなかったのだ。  
     

 ついでだから英語が駄目な訳、勉強しなかった言い訳をすると次のようになる。私の住んでいた寺は東海道線のすぐ近くにあり、駅も近いという事もあって戦後すぐの時は汽車がよく止まっていた。
 進駐軍―アメリカ人が窓やデッキからチョコレートやチューインガムを子供達にほうっていた。私もまだ小学校に行く前の子供だった。それらが、砂糖がまだ貴重品だった時代、どんなに美味しい物だったか知っていただけに拾いに行けない事で、母にほうられた物は貰ってはいけない、と言われていたので、アメリカ人をそして英語を嫌いになったようだ。それやこれやで英語嫌いは高校を終るまで続いたが、いざ大学へと思い入学試験に英語のない学校を探したが、これが無い。東京水産大学の入試でも、最低二十五点以上取らないと合計点が幾ら良くても不合格となっていた。一年嫌いな英語を勉強して何とか入ったが、入ったとたんに元の木阿弥、結局洒落ではないが船で後悔していた。
 
 テーブルで一緒になった人たちはその席に外国人がいると皆英語で話していて、私は淋しい思いをした。英語が話せなくては世界中の人と会ってもなんにもならない、好奇心の赴くままに世界中のものを、自然をそして人間を見るために旅に出るのだから、外国人がどんな人間なのか知りたい、と。

 こうして私の英語に対する態度がはっきりと変わった。好きも嫌いもない、それは私にとって必要なのだと。