船乗りマッタ

ロベルト・セバスチャン・マッタは1911年、チリのサンチアゴに生まれた。父は牧場を営み、裕福な家庭であったという。大学で建築を学んだ後、マッタはチリを離れ、半年の間船乗りとしてヨーロッパ諸国を周った。34年よりパリのル・コルビジュエの事務所で働き始めたが、この偉大なる建築家の気質が「余り私の父に似ているので、お互いに理解し合うことができなかった(マッタ談)」ため退職、再び各地を転々とすることになる。

転機が訪れたのは37年。パリ万博で仕事をした際、ピカソやミロの作品に初めて接触して深い感銘を受けたことや、デュシャンの書物、ダリと詩人ガルシア・ロルカとの出会いなどによりシュールレアリスム運動を知り、グループに加入した。だが時は不幸にも大戦前夜、マッタはタンギーと共にニューヨークへと戦火を逃れる。その時出会った米の新進作家たち―ポロック、マザウェル、ゴーキーら―との交流は双方に実りある結果をもたらした。だが戦後の48年、マッタはグループより除名を言い渡され、ローマに移住することになる。

 

政治家マッタ

シュールレアリスム脱退後のマッタは積極的に政治的行動に出るようになり、当然作品にもそうした流れが影響する。70年、祖国チリにて社会主義者アジェンデが大統領選で勝利した際には大統領自らの招聘を受けて一時帰国。翌71年には、『解放された右腕』という意味深なタイトルの版画集を発表している。73年、軍事クーデターによりアジェンデ政権崩壊、ピノチェト軍事政権が誕生したが、マッタは新たな政権に抗議する展覧会《Per il Cile con Matta》と石版画集『チリ』を発表、それらを諷刺した。それらの行動は、マッタがシュールレアリストとして収まり切らなかったことを示してはいないだろうか? 他にもマッタはアルジェリア独立戦争やアンゴラ解放運動などをテーマに制作するだけでなく、キューバや南米、アフリカ諸国を幾度となく訪問している。その活動量たるや、並の政治家以上のものがあろう。

 

版画家マッタ

マッタが版画制作を始めたのは40年代、戦火を避け渡ったニューヨークにおいてである。だがこの時は数点の制作にとどまり、以後数年のブランクを経た後、50年代後半から初めて版画制作に時間を費やすようになった。それぞれの時代の作風を大まかに捉えると、性を扱ったとおぼしき40年代から50〜60年代には宇宙衛星のような無機物が、70年代にはマッタ星人とでも言いたくなる有機生命体が主として登場する。色彩は年を重ねるに連れ鮮明になり、70年代に入ると『チリ』のようにコミカルな諷刺画も描かれるようになる(ここで空間が平坦な色で塗り潰されているのが興味深い)。それ以降は、生物を更にデフォルメにしたもの、あるいはアンフォルメル(無形態)になってゆくなど多様な世界に展開して行った。

 

人間マッタ

マッタは生来の楽天主義者だったのか、作品中に「悲しみ」の要素は含まれていても、独自のユーモア感覚によって観る側をいたずらに落ち込ませたりはしない。異次元空間に浮遊するスケール感溢れる未来的物体、あるいは時にエロティックで茶目っ気たっぷりに飛び跳ねる異星人風有機生命体は、否が応でも我々の心を興奮させ、踊らせるかのようだ。が、同時に皮肉屋かつ物事に懐疑的なマッタは人間の愚かな部分を露わにする針を隠し持っており、それで我々の鈍感な意識をチクリと刺激するのである。

   マッタは意外にも日本との関わりが深い。昭和始めには彼の祖母が駐日大使の妹としてこの国に滞在した。彼女の送った土産物が幼きマッタの心を捉え、後に埴輪や骨董などの収集へと繋がった。また、広島の原爆問題を題材にした『HIROSHAME』(“広島”と“恥−SHAME”をもじった造語)という作品の発表や95年の高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門(過去の受賞者にタピエス、バルテュスなど)受賞など、この国と関連した話題は豊富である。

 

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